

あの1945年への信じられない旅のあと、暫くは常人を装い、会社勤めをしながら中古カメラ市に行ったり、仲間内で魔界都市新宿の撮影ツアーに行ったりして、普通の生活を送っていました。
そして、いつもの通り、会社勤めを終え、地味な気持ちで深川の住まいに帰ってみると、小包の不在時配達通知が・・・
なんだろう、電子湾で釣り上げた獲物の何かが今頃になって届いたのかな、と見てみると、「神宮寺融」と差出人の名前が書いてありました。
早速、愛車を駆って東陽町の本局まで行って、品物を受け取りました。
すると、中に達筆な文字の手紙が同封されており、
「先般は有難う、おかげで当面はこの世の中は大丈夫だ、25世紀の本部にも確認しているから間違いない。たった一人の病的マニアのせいで日本の歴史が変えられるところだった。あの後、同時代のタイムパトロールが後始末をきちんとやっておいたから、君の自宅にあるL39マウントのニコンのレンジファインダー機も全て元のSマウントになっている。そうそう、もう戻った以上、君の記憶にも存在しないから、言っても意味のないことだった。先般はロクなお礼も出来なかったから、ほんの気持ちだが、うちのペットのどえりゃもんが遊びで拵えたレンズを贈呈しよう。 神宮寺融 より」と書いてありました。
早速家に持ち帰り、丁寧に梱包されたエアキャップ越しの黒いレンズをほどいて見てみれば、禍々しいまでに精悍な格好のライツフォコター50mmf4.5が入っていたではないですか、と同時にこの時代の人達に決して見られてはいけない老人からの手紙は、あたかもスパイ大作戦のハント宛の指令書みたいに派手な閃光とともに一瞬に空間に消えてしまうし。
一体全体、どういう趣向なんだ、と半ば呆れつつも、老人の遊び心に満ちたギミックを楽しみながら、レンズを取り出しました。
すると、またもう一枚、お世辞にも上手いとは言えない、太ったネコのイラストと、小学生みたいな走り書きで、「これ開けてみて、製作者からのメッセージ♪」と書いてありました。
ここまでくると、先般の不思議な体験がまた打ち揃って家に押しかけたみたいで、何だかワクワクしてきました。だって、今の世界でこんな経験をしているのは、おそらく私だけでしょうから。
二つ折のカードを開くと、ヘタなアニメの空中像が立ち上がり、こう名乗りました。「ボク、フォコタ♪」
な~んだ、こんな今日びの小学生すら考え付かないようなダジャレを披露するため、21世紀も終わり頃のアクティブホログラムカード同封で改造レンズを送ってきたのか・・・と思ったら、今頃、BC27世紀のナイル河のほとりで、深海生物の後を追っているであろう、真面目くさった神宮寺老人の顔をふと想像してしまい、笑い出さずには居られませんでした。
とここまでフィクション。
で、ここからが現実です。
このレンズは、1年以上前に電子湾から格安で引いてきたのですが、何せ、中が汚れていて、そのままではとても改造する気になれず、また、結構フランジバックが長いので、元々改造しようと思っていたSマウントでは細長くなりすぎ、強度的にも、外観的にもあまり好ましくないので、何かイイアイデアが出るまで放っておこうと思い、防湿コンテナの肥しとなっていたものです。
ところが、門下の深海生物工房の立ち上げに際し、数本拵えた際、編み出した工法をフィードバックできることが判ったので、工房で分解、オーバーホールを施した上で、特製マウントユニットに結合し、
L39マウントとしたものです。
試写に関しては、このところ、お披露目の常套手段となっている、新宿西口写真修錬会の溜まり場である、某南蛮茶店店内にてタングステンライト下でのRD-1Sによる実写のライブです。
まぁ、手慰み程度にちょこちょこっと作ったレンズなので、実写結果はそれほど期待していなかったのですが、まぁ、この作例の如く、開放から、一同、唾ごっくんの結果。
いやぁ、歴史的名玉恐るべし・・・神宮寺老人サンキューです。
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- 2008/08/26(火) 23:23:36|
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今宵の紹介は、また工房附設秘宝館からの登場で、Rodenstock Heligon35mmf2.8です。
ここのブログでは、改造レンズである、Cine-Heligon50mmf2、Rogonar-S50mmf2.8、Rodagon50mmf2.8、そしてApo-Rodagon50mmf2.8が先行して紹介されてしまいましたが、今回ご紹介する35mmのHeligonだけが、ドイツ光学業界の老舗のひとつ、実力ではツァイスに比肩するとも言われる1877年創業のRodenstock社がライカ互換マウントのL39スクリューで1950年代にリリースした唯一のレンズです。
Rodenstock社は、技術力を誇示するかの如く、この超高性能レンズ1本のみをライカ互換でリリースして以降、活躍の場を大中判、引伸レンズへと移していきます。
そもそものこのレンズとの馴れ初めは、今から9年ほど前、タイから復員してきて、外地で稼いだ泡銭もあったし、そろそろ、ライカ互換の珍しいレンズでも漁ろうかな・・・という下心を持って、銀座の黄色い手榴弾のお店のショーケースを覗いていたら、たまたまこのレンズと目が合ってしまい、ふと頭をよぎったのが、んん、ローデンシュトック、お、これ、カッコェェ眼鏡のフレームとか作っとる西独の高級品の会社やんけ・・・見た目はイマイチやけど、もしかしたら、値段もそこそこ高いし、珍しいものかも知れへんから、ゼニようけ持っとるうち、買うたろう♪という、自己飼育の悪魔の囁きでした。
で、次の晴れた休日、深川界隈の風景、運河や、神社仏閣の参道の商店などを試写してびっくらしまくらちよこ状態でした・・・開放から、恐ろしくシャープで、色のヌケも良く、画面隅々まで歪み、崩れな~ぃ・・・しかも、合焦部の超シャープさと相反して、前後のボケもスーパ-ナチュラル!
ご覧の通り、カッコは地味目ですし、小ぶりなのでそれほど凄いレンズとは思えませんでしたが、ずっしりと重い密度感の塊である、このレンズの驚愕すべき試写結果をもとに、SマウントのW.Komura35mmf2.8と双璧の広角レンズ軍団の礎となったのです。
何せ、50mmでは、当時はSマイクロニッコール50mmF3.5が優劣を図るメートル原器のような役目を果たしていましたが、35mmでは、このHeligonを基準にして、シャープネス、発色、ボケを判断するようになってしまったのですから。
シャープさだけなら、キャノンのL35mmf2か前回ご紹介のW.Komura35mmf2.8でも十分太刀打ち出来るかもしれませんし、色ヌケの良さであれば、CXマウントの35mmf3.5のプラナーでも比肩し得るでしょうし、開放時の立体感やボケのなだらかさでは、ズマロン新タイプ35mmf3.5もイイ勝負を見せてくれますが、やはり、オーバーオールの性能を考えると、このHeligon35mmf2.8が依然としてチァンピオンと認めざるを得ないと思います。
余談ながら、ダブルガウスのDNAは隠せないと申しますか、このレンズに一番近い写りをして、時には同伴した主役のシネ改レンズすら喰ってしまう、驚愕のレンズが同じく4群6枚対称系のMロッコール40mmF2だったのです。
- 2008/08/18(月) 23:07:09|
- 深川秘宝館
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今宵のご紹介は、どこかの中古カメラ店の棚の片隅にありそうで、実は全くない、人様から珍品と言われ、初めて珍品なんだねぇ・・・としみじみ感じ入った、地味めながら高性能を秘める、失われた下町の銘玉、W.コムラー35mf2.8Sです。
確かに国産の35mmf2.8というスペックのL39マウント版は、銀座の黄色い手榴弾のお店も、新宿の時計屋の傍らにカメラ商っているかの如きお店も、国産の旧RF用の交換レンズの在庫が豊富なお店ならば、だいたい何かしら置いています、キャノン、ニコンは語りつくされた感アリなので除くとして、TANAR35mmf2.8、Acoll35mmf2.8、そして、ちょっとレアなのが、このW.コムラー35mmf2.8のL版、だいぶレアなのがプロミナー35mmf2.8、そしてトプコール35mmf2.8ってとこではないでしょうか。
しかし、そのものズバリ、NikonSマウントの国産の互換広角レンズというのは、このW.コムラー35mmf2.8だけではないかと思います。尤も広角では被写界深度の関係でヘリコイドのドライブ量は関係なくなりますから、キャノンの28mmf3.5CXも、ソリゴール35mmf2.8もニコンSマウントで問題なく使え、実質互換レンズですが。
このレンズとの出会いは、まだ右も左も判らないコレクター初心者マークの頃、SP用の35mmがニコン純正の35mmf1.8しかなく、な~んとなくもう1本くらいF値の違う(要は安くて手軽に使える)交換レンズがあったら欲しいなぁ・・・とか念じながら、銀座の裏通りを歩いていると、天に召される前の黄色い手榴弾の一階の玉石混交というに相応しい雑多な委託品の棚の下の方に目立たず置かれていて、誰にも関心を示されずにしょぼくれているかのようにも見えました。
ふと視界に入った時、こんなメッセージが心の中に忍び込み、思わず手を伸ばしてしまいました、
「私の貧しい実家は潰れてしまい、兄弟もちりじりです。大メーカーの産まれぢゃないんで、満足な値段も付けてもらえませんが、産みの親のエンジニアは一生懸命設計してくれて、工員さんは、一個一個丁寧に組み立て、検査員のお嬢さんは厳しくも丁寧に見てくれて、たくさんの愛情を受け、この世に産まれ落ちました・・・絶対期待を裏切らないから、ここから連れ帰って下さい・・・」と。
値段も当時の同じレベルの品質状態のW.ニッコール35mmf1.8の4分の一程度だったので、迷うことなく、この心の声に耳を傾け、我が家へとお連れしました。
そして、この1960年代初めに生まれたレンズが家に来て初めての夏。
近所の洲崎弁財天のお祭りをやっているらしく、そとから活気ある掛け声や調子をとるホイッスルなんかが聞こえてきました。
ここで、このレンズに初仕事のチャンスを与えることとしました。
但し、メカ的な相性がよく判らなかったため、最初のテストはキエフ4での出撃。
真夏のピーカンのもと、神輿を担ぐ法被の若衆、日陰で涼をとる世話役の壮年達、そして、愛くるしい子供神輿の一団・・・戦場カメラマン宜しく、かなり露出もアバウトに全コマ開放で反射的にシャッターを切り続けましたが、夜、そのプリント結果にびっくり・・・
心の底では、安かろう、悪かろうと思って、どうせニコンのパチモンとしか思っていなかったこのレンズが予想以上の戦果を上げたのです。
ハイライトは飛ばず、フレアも出ず、シャドーでも色を忠実に再現し、しかも古い広角特有の周辺の崩れ、歪みも一切なし。
まさにお値段4倍のWニッコール35mmf1.8よりシャープで発色も醒めたカンジで、使い方によっては、こちらに軍配が上がるとさえ思えました。
後々調べてみると、このレンズは、普及品にも関わらず、後発の強みを活かし、ライツズマロン35mmに範をとった4群6枚の変型Wガウスタイプながら、先行していたWニッコール35mmf1.8をも想定ターゲットとし、F値を抑え、新たに設計し直したということなのです。
後々にこのレンズとの出会いが、次々と無銘の高性能レアレンズとの邂逅を与えてくれます。
タナー5cmf1.9しかり、サン、ソフィアしかり・・・有名なメーカー、大メーカーの産まれぢゃなくても、イイレンズは一杯産まれているのですよと。
テーマ:ニコンSマウント - ジャンル:写真
- 2008/08/13(水) 01:35:44|
- 深川秘宝館
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さてさて、今宵はこのところヘタッピィなSF小説?に目覚めてしまった工房主人の書きネタ、満を持しての登場です。
予告編というか、前編は厚かましくも、たまたまイメージに合う景色の作品が載っていたことから、某友誼電站からスタートしましたが、本編はここから・・・
(中将姫光学;「窓外的象差」より続く)
この"庵"全体を包む不快な音と、自分自身への強烈な帯電感に苛つきながら目の前の神宮寺老人に目をやると、老人は作務衣のまま、ずっと瞑想するかの如く一切の表情を押し殺し静かに息をしている。それに引き換え自分はどうだ。
頭を抱え、ムンクの「叫び」宜しく絶叫まではしないものの、もうじっとしているガマンの限界だ。
すると、窓の景色の流れが目に止まらない速さになると同時に老人の手から頭から、次第に燐光に包まれ、やがて全身がネオンのように光り、ふと正座する自分の膝にも視線を落とすと、同じように眩く光っている。
老人は目の前に居るにも関わらず、距離感が馬鹿になっている。遥か彼方からの呼びかけの如く、「タイムトラベル初体験はどうかね」と。
答えたくとも答えられず、今の状況にじっと歯を食いしばって耐えていると、「誰でも初めはこんなものだ、失神したりしないだけ上出来だ」と。
この地獄の責め苦のような状態は永遠に続くのではないかと思われたが、不快感がピークに達し、一瞬意識が遠のきかけた時、音と帯電感は消え、また元の静寂が"庵"に戻った。
「1945年の4月だ」老人はこともなげに言う。
言われたことがすぐに飲み込めずにいると、畳み掛けるように「時間は一瞬にして飛べるが、地球上の二地点間はそうはいかない・・・不便なものだ」と。
「で、仮に今が1945年の4月だったら、本土空襲は始まっているし、あと4ヶ月で終戦じゃないですか」と。
「それは元の世界での話しだ。ここではまだ沖縄も硫黄島も連合軍に上陸されておらず、44年末にUボートと北極圏経由のハインケルのジェット輸送機で運ばれた資材で組まれた橘花と過給機付高高度迎撃戦仕様の烈風が二枚看板で制空権を担っているため、成都からのB29のピクニックもない。」
「ということは、日本は勝っているということですか・・・」いつの間にか老人のペースに乗せられ、この架空戦記の話題に首を突っ込むことになってしまった。
「それも違う・・・いずれは負けることになるのだが、こちらでは負け方が違うということだ」あたかも自分が歴史を決める神であるかのような威厳を持って老人は答えた。
「一体、どういうことなんですか・・・自分が大学で学んだ現代史と全く違っている、そもそも橘花や烈風なんか、終戦前に試運転も十分に出来ていたか、いなかった兵器ではないですか。」
「4式中戦車も5式重戦車も、5式自動小銃も電波信管も射撃統制レーダーもあるよ、こっちの世界ではな、因みに一番のネックだった燃油もGTL、天然ガスからの液化に成功して解消しているよ。」
「今から、キミと私はハインケルの定期便で北極経由、ベルリンに飛んで、ツアィスのイエナ工場の自爆をけしかけた犯人を探し拘束するんだ、軍務部の上の方には話をつけてある。」
「ベルリンって言ったって、あと二週間もしたら、連合軍に包囲され、総統が防空壕で愛人と自決して、あっけない幕引きが待っているのでしょう、どうしてそんなとこへ行けますか。」
「それも、向こうの歴史。こちらでは、潤沢に製造されている人造石油でキングタイガーもUボートもメッサーシュミットも元気に飛び回って、連合軍を押し返している。いずれは負けるが、こちらではまだ先の話だ。」
一方、その頃、ドイツでは、ベルリンに呼ばれたツアイス社の経営幹部であるハインツ・キュッペンベンデル博士が幾度となく、謎の人物の面談を要求され、途方もない「事実」を告げられる。
「私の来た世界では、ドイツ第三帝国はあと二週間程度で陥落してしまい、貴社は米英の自由陣営と、ソ連の共産陣営の二つに跡形もなく切り分けられてしまう・・・そして、同じ敗戦国の日本が寛容な占領政策のお陰で、偉大なるツアイス、ライカのカメラを世界中から駆逐してしまう。」
「そんなことがあってたまるか・・・」我が社のコンタックスは言うに及ばず、ずっと簡単なライツ社のカメラですら満足のモノマネ出来ない国が世界に冠たるドイツの光学製品を世界から駆逐出来よう筈がない、インド人がイギリス人を跪かせるくらいに有り得ないハナシだ。
「しかし、事実なのです。貴国からの断片的な技術情報でジェット戦闘機は飛ばすし、ジェットタービンの軸受鋼は現に日本からのクロスライセンスですし、GTLの技術も官営製鉄の技術がなければ完成しなかった。もっと端的に申し上げれば、世界一の巨大戦艦の測距地球儀を作ったのは、第一次大戦後に食い扶持求めて極東に渡った貴社のエンジニアの教え子達です。」
「百歩譲って、自分が日本を過小評価していたとして、その我が社の悲劇的な結末と日本勢の躍進はどうすれば止められるんだ」
「よくぞ聞いて戴きました。貴社の工場の主要な資機材、書類・データ類を夜陰に紛れて中立国に運び出し、総員退去の上、ドレスデン爆撃の夜に自爆させるのです、あたかも誤爆されたかの如く。」
半信半疑だった博士は、謎の人物の「Coolpix」のデジカメを見せられ、この人物が人外魔境からやってきたことを信じざるを得なくなりました。
そこで、写真部長のリヒテルと極秘に会議を行い、日本嫌いのベルテレまで引き込み、この壮大な大イカサマバクチを行うことに意を決しました。
1945年5月の或る夜半、メッサーシュミットのジェット、ロケット戦闘機の合間をくぐり、雲霞の如きB29が絨毯爆撃をドレスデンに行います。
しかし、こちらの世界では、この空襲は謎の人物からツァイス社の上層部経由、国防軍に予め知らされており、避難は完了していたので、奇跡的に極少数の負傷者のみで済みます。
その夜を焦がす大爆発の競演のさなか、近隣にあるイエナのツアイスの工場が大音響と、空を焦がすが如き高い火炎と共に跡形もなく吹っ飛びました。
そうなると、困るのが、連合軍各国です。予め戦後の冷戦を見越し、軍民用共に魅力有るツアィスの技術、設備が手に入らなくなってしまったのです。
そこで、両国の軍令部の高官がヤルタで密談を持ちます。
ソ連の太平洋戦争産戦、そう、ソ満国境越境、そして北極海経由での艦隊輸送による日本本土上陸攻撃の密約です。
こちらの世界でもやはり米国は世界に先んじて、核兵器の開発に成功しましたが、制空権が今だ取れないため、主要都市への爆撃も成功せず、従って、原爆の投下など、橘花や過給機付き烈風のバルカン砲や噴進弾の餌食になる危険性を考慮すれば得策ではありませんから、圧倒的な陸軍力を誇るソ連軍に先に上陸を許し、それに釘付けになっているうちに海軍力、航空力で以って米英勢力が波状攻撃を掛けるという戦略を講じたわけです。
しかし、ここで参戦の条件となったのがやはり戦後占領策で、両陣営とも喉から手がほど欲していたカールツァイスが灰燼と帰してしまった以上、これに代わるものは極東の教え子達、日本の光学機器メーカーしかありません。
その結果、、日本光学はソ連に、そして東京光学他は米英にという、共同統治とする東京周辺の「宝の山」の山分け案が罷り通り、8月15日のソ連軍の房総方面からの上陸から、太田ほか主要軍事工場都市へのB29の夜間爆撃を経て、松代大本営への熱核爆弾投下の最後通牒を持って、1945年暮れ、日本は無条件降伏し、ソ連軍は念願の日本光学の設備、資料、エンジニアをシベリア鉄道経由、クラスノゴルスクへと運び去ります。
そして、戦前から民生用への進出を試みていた、日本光学のライカ版写真機用レンズ試作部品の数かずが、元々、クラスノゴルスクで極少数、戦功があった将官クラスに送られるために作られていたカメラのレンズに利用されたのでした。
さて、話しは1945年の4月に戻ります。
ハインケルのジェット便でベルリン入りしたタイムパトロール1名とその俄か助手は、キュッペンベンデル博士に会いに行く直前のタイムトラベラーの塒を急襲し、その身柄を拘束し、スイスローザンヌ在住のタイムパトロール協力者に引き渡します。
その犯人は、何でも「ニコンの改造レンズを溝の口の深海生物に頼んだら断られたので、その腹いせに歴史を弄ってやろうと思った・・・」と。
そして、またジェットで日本に戻り、"庵"を駆って、二人は2008年晩夏に戻りました。
「大丈夫、異次元との交錯は元に戻った」老人は茶を点て、楽茶碗を掌で弄びながら、木漏れ日に目を細めつぶやきました。
とにかく、家に戻って、冷たいシャワーが浴びたかった、そして、悪夢のようなこの二週間?の出来事を忘れたかった・・・しかし、時計は老人の庵に来てから一時間少々しか経っていない。
庵を辞して街に出てみると、若い男女のあられもないファッションはそのままだし、ガソリンも180円/Lそのまま、首相も福田ジュニアのままだ。
そうだ、出たついでに久々に街の中古カメラ屋でも覗いてみるか・・・
ショーウィンドを覗いてみると、1946年製の程度の良いニコンRF機が何台か出ていた、大冒険?の後、久しぶりに新しいカメラでも買おうか、という気になった。ついでにライカ社製とキャノン製の交換レンズも一緒に買っていこう。(完)
てな、ストーリーですが、この写真のレンズはクラスノゴルスク製では勿論なくて、(小笠原海)溝の口に棲息する深海生物工房で作られたものでもなく、深川精密工房で軽量化のために実験的に試作したワンオフレンズです、その名もNikkor Krasnogorsk Produced by Fukagawa、略してNKPFというワケです。
テーマ:ライカ・マウント・レンズ - ジャンル:写真
- 2008/08/04(月) 00:39:30|
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