





【撮影データ】カメラ:LeicaM8 絞り優先AE ISO Auto 全コマ開放
さても巡り来た日曜の晩、巡る月日は風車と、もう早いもので、一月最後の更新となります。
今回のご紹介は、色々とネタが有ったのですが、某友誼電站にて川越特集やっていますので、乗り遅れると、やれ出し惜しみだの、新鮮味が薄れるのと、手厳しいお叱言が待ち構えていますから、当初予定を変更し、恐らく世界で一本と思われる帝国光学製ズノーフレックス用に開発されたと思われる、いかにも意味有りげなシリアルのズノー50mmf1.8をご紹介致します。
目ざとい読者の方は撮影データをご覧になって、ん・・・なんでカメラがM8とか書いてあんの?先週からのコピペで消し忘れあんぢゃね???と甚だ疑問に思われることと思います、ところがさにあらず、今回ご紹介の作例は全てM8で撮影したものです。
では、何故、そしてどうやって?という疑問が次に湧いて参りますが、順を追ってご説明致しますと、まず、このレンズは、都内某所の知る人ぞ知る、映画、CM、特殊撮影に関する大御所の事務所兼ラボ兼、倉庫兼秘密工場で永い眠りについていたのを、大御所手ずからの古レンズ発掘作業時に偶然発掘され、或る日、それを目敏く見つけた深川の工房主人が、あまりにも物欲しげに指を加えて見つめていたので、「持って帰ってイイよ、Fマウントにでもしてみな♪」と気前のイイことに預けて戴いたものなのです。
そこで、お預かりの条件通り、この稀有のレンズをFマウント化するために、苦心惨憺、マウント部をバラし、ズノ-オリジナルのマウント部をオリジナルのアルミ合金製に対し、工房では、高耐力真鍮の丸インゴットを刳り貫き、チタン箔、テフロングリース等々の最新テクノロジーなども使い、Fマウントで無限から最近距離まで指標通りに作動するプリセット絞りのレンズに改造したのです。
ところが、この写真の報道用F後期型に嵌めて、期待に胸弾ませてシャッター切ると、んんん、シャッターが落ちない・・・もしやと思いレンズを外してみたら、な、何と、後玉周囲のリングがミラーにぶつかっていて、ミラーがアップ出来ない。
が~ん・・・大失敗、これだけの労力をかけて写真を撮ることが出来ない。
病的な潔癖主義で気の短い工房主人は、きっとこれが自分の買ってきた玉であれば、後先考えず、窓から下を流れる運河にでも放り込んでいたでしょうが、これは、乞うて、大御所からお預かりしてきた貴重な玉です。
どうしようか迷いましたが、一晩寝てから考えることにして、翌朝、会社への出勤途上、マンションの入口にふと置かれたままになっている、寿司のおか持ち、しかも違う形のものを何とか重ねてある・・・そう、Fマウントに更にアダプタ付けてしまえばイイんだと。
しかし、大方針は出ましたが、このレンズ、当然のことながら、回転ではなく直進ヘリコイドですし、カムの連結のためビスで微細とは言え本体にキズでも付けては困りますし、接着剤など論外です。
そこで、うちの工房で試験的に買って、一旦テストはしましたが、実用性無し、との判定で死蔵されている或るアクセサリーが有ることを思い出しました。
それが、距離計半連動式のニコンF(レンズ)→ライカL(ボディ)アダプタです。正しくはカプラと呼ぶべきでしょう。
このアダプタはアイデア自体は秀逸で、要はボディ側の二重像合致式距離計で距離を割り出しておいて、独立したレンズの方のヘリコイドに移し変えるという方式の距離計利用法なのです。
ところが、なかなか上手いこと行きませんでしたが、或る程度コツを掴むと、結構正確に写真撮れるようになります。
それが距離を決めておいて、3mなら3mで二重像もレンズのヘリコイドも揃えておいて、撮影者自身が歩いて被写体まで近寄って行って、そして二重像が合った時点でシャッター切るのです、名づけて「人力ヘリコイド」。
ところで、このZunow50mmf1.8とはいかなるレンズなのか・・・その点を少し整理しておきましょう。
まず、このレンズを生み出した帝国光学ですが、設立は昭和5年と古く、レンズ専業メーカーとして、国内の中小カメラメーカーにレンズを供給していました。
この名前だけは壮大稀有なメーカーが名実共に世界の檜舞台に踊り出るのは、もはや説明の必要もないほど有名な、かの50mmf1.1を1953年に発表し、光学機器のお師匠さん、ドイツの光学界まで震撼せしめた時でした。
その後、国産各社がf1.2クラスのレンズを次々発表し、本家ライツがノクチルクス50mmf1.2をリリースしたのは、この極東の小さな光学機器メーカーがその技術を世界に問うた13年後のこと、1966年です。
そして、小さいながらも新進気鋭のアイデアに富むこの会社は、50mmf1.1リリースの5年後、1958年にこれまた世界初の完全自動絞り、クィックリターンミラーを装備したバヨネット式の一眼レフカメラ、ズノーフレックスを発表し、その先進性を世界に発信しましたが、やはり中小企業の悲しさ、人材不足の為せる業か、光学・機械設計技術と素材利用技術、要素技術と製造管理技術、釣り合いが取れないままでのかなりムリをした船出であったため、この革新的(である筈の)一眼レフは初期ロットの500台とも言われる個体のかなりの数がフィルム給装機構に致命的欠陥を抱えて出荷され、それがため、回収、破棄され、市中に出回った数は200とも、150とも言われています。
因みにニコンFが満を持して登場したのは、この一年後の出来事です。
そして、運命の1961年、この革新的ながらも儚げだったメーカーは大手取引先のアルコの倒産の余波をもろに受け、倒産の憂き目に合い、結局は同業のヤシカに吸収されてしまいます。
そのヤシカも数十年後事業破綻し、京セラに買収され、またそこも光学機器事業撤退という事態に見舞われるとは、何と因果なことでしょうか。
とまぁ、湿っぽい前置きはこのくらいにして、早速作例行ってみます。今回はオール川越ロケです。
まず一枚目。
一月の上旬には、毎年恒例の「ノンライツRF友の会・新宿西口写真修錬会」の新春撮影会が川越で行われます。
そして、朝10時に本川越駅集合ののち、まずは茶などをしばき、暖をとってからの撮影スタートです。
最初の目的地は、「喜多院」です。
ここでは、もう松も取れようというのに初詣客も大勢溢れ、七五三の残党みたいな親子連れまで散見されます。
集合場所・時間決めて、一同は散開、思い思いに獲物、もとい被写体を探します。
そして、早速、小生の目の前に現れてくれたのが、川島海荷を幼くしたような美小姐連れの親子、一枚イイすかぁと指立てると母親が渋々首を立てに振ります。
そこでカッコ良く一枚撮って、ハイ、お疲れサマでしたぁ・・・と手を振って笑顔で別れられればそれに越したことはないんですが、何せ半連動式のため、なかなか撮影に入れません、カラフルなチョコバナナを持った小姐もだんだん機嫌が悪くなってきそうな時、シャッターを切ったのがこの一枚。
フレアっぽいですが、よくよく見てみますと、シネレンズばりのシャープネスと赤の発色の艶やかさです。
また、遠距離の後ボケは2線気味ですが、直後のザンギリ頭の少年は良い案配のボケとなりました。
続いて二枚目。
やっとのことでコツを取得し、次なる獲物を求め境内を徘徊していると、木漏れ日浴びた露天商見習いと思われるそこそこ若い男女が言葉も交わさず、黙々と早い昼食、もしくは極度に遅い朝飯を食べています。
この陰陽が面白かったので、至近距離まで近づき一枚戴き。
小姐の耳にピンを置いていますが、素晴らしいシャープネスを見せてくれていますし、その少し後ろで黙々と食べている男子の方は優しいカンジのボケと化してくれました。
ここでも、赤の描き分けが見事ですし、背景の2線ボケもそれほど煩くはないと思います。
それから三枚目。
境内の喧騒から離れ、やや奥まった位置に在る、東照宮方面を目指します。
その途中に池が有って、寺社仏閣の造営ではお約束の池の中の浮島には弁天様のお宮が祀ってあって、島へは造形も配色も見事な太鼓橋が掛けられています。
その橋の見える岸辺で、息を殺し、次なる獲物を待ち受けていると、来ました、来ました、格好の餌食、もといモデルさん達が・・・
そう、マルコメ味噌の小坊主みたいな少年とその姉と思しき小姐の2名が池の周辺で走り回って、追いかけっこ的な遊びを楽しんでいます。
そこで、これこれと声を掛け、写真撮って上げるから、ちょいと橋の上を2人で早歩きしてごらん・・・と優しく諭すと、そこはそれ、純朴な田舎の子供達のこと、素直に聞き分け、言うことを聞いてくれました。
ここでは、深い緑の中の塗りも鮮やかな赤い橋のコントラストと橋の奥手の芝生の直射日光がもたらすフレアがえもいわれぬイイ雰囲気を出していて、橋の上の子供達は、南画の唐子(からこ)のような素敵な引立役となってくれました。
まだまだの四枚目。
子供達にもお礼を述べた上、画像を見せ、満足して貰ってから別れ、一同の集結場所に向かい、集まってから、次の目的地を目指します。
次の目的地は、お楽しみのランチ、川越一の評判のお寿司屋さんです。
勿論、メンバーがメンバーなので、大人しくガイド役である小生に黙ってついてくる筈もなく、ガイド役もただ漫然と歩いて、A地点からB地点への移動を行うわけではありません。
当然、メンバーは皆、きょろきょろと何か面白いものは無いかと物色しながら歩くわけですから、いかな観光客の多い川越とは言え、一種異様な行列ではあります。
そしてひと目も気にせず、物色し続けたアンテナに掛かったのが、この表通りの正月飾り、前衛門松とでも呼ぶのでしょうか。この奇抜な姿と背景の古風な建物を画面に収めていると、ちょうどイイ按配に親子連れが通りがかりました。
ここでも、陽の当った竹は当然の如く、フレアっぽい写りとなっていますが、垂れ下がった赤い花々はキレイに発色していますし、店先のシャドー部も上手い具合いに描写されています。
最後の一枚。
ここ川越は、蔵造りの和式の古い店舗、民家だけではなく、実はかなり古い煉瓦造りの教会が残っていたりします。
この教会も何年か通ううち、喜多院から、刻の鐘、寿司屋方面への近道を探している時、偶然見つけ、仲間内での定番撮影スポットに加えられた場所です。
この建物をこのアングルで様々なレンズで撮りましたが、この空の蒼さ、十字架の白さ、そして煉瓦の茶色の重み・・・フレアがかっていながら、心地良いシャープさで捉えてくれたのは、このレンズの恩返しではないかとさえ思いました。
今回の感想としては、偶然とは言え、このように歴史的に見ても重要で、しかも古さを感じさせない高性能レンズが再び活躍するお手伝いをして上げられたことで、工房やってて良かったと改めて思いました。まさに職人冥利に尽きます。
テーマ:Nikon Fマウント改造レンズ - ジャンル:写真
- 2010/01/31(日) 20:31:11|
- ニコンFマウント改造レンズ
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【撮影データ】カメラ:Leica M8 絞り優先AE ISO AUTO 全コマ開放 、ロケ地:神楽坂
月日は早いもので、もう1月も下旬に入ってしまいました。
当工房ブログも今年に入ってから3回目の更新となります。
さて、今宵の御題は、久々のというか、殆ど今までも無かった望遠系でご紹介です。
だいたい、街撮りは接近戦と心得ている工房主は、遠くから撮る望遠に対し、飛び道具を忌避する武士(もののふ)とは言わないまでも、違和感を少なからず抱いており、そもそも、被写体と自分の間のクリアランスに意図しない第三者の闖入の危険性を常に孕む望遠はなかなか買おうともしないし、買っても、ものとしては魅力を感じても、道具としては利用価値を認められないので、今回のレンズも、かの銘玉サン・ソフィアの兄弟だわぃ☆と思い、価格も安かったことから買ったわ良いが、死蔵していたのを今回、たまたま別のレンズ発掘の際、目に留まったので、初めて試写した次第。
今回、街撮りはぎりぎり日没前に神楽坂に出かけましたが、いやはや、こんな天狗の鼻みたいに長く、総クローム仕上げで光りまくる異質なデザインのレンズを提げていると目立つこと、目立つこと・・・きっとこれも、望遠系を街撮りには使いたがらない理由なんだろうな、と自ら妙に納得してしまった次第。
さて、今週もこのレンズの氏素性に関し、少しだけお浚い。
まずこのSun.Opt.つまりサン光機は、昭和22年に五條光機からの事業を継承し、主に輸出向け中心に交換レンズを製造し始めました。
そして、この9cmf4のSolaはサン光機がおそらく1948年以降、1950年半ばくらいまで製造したライカマウントの望遠レンズで、光学系は3群4枚のテレ・テッサー系と言われています。
面白いことに、このレンズ、2つのタイプが存在することが知られており、前期タイプ、そうこの83XXXを最終ロットとする個体は、ご覧の通り、総真鍮削り出しに厚手のクロムメッキ仕上げのずっしりとした、かなりゴーヂャスな製品なのですが、後期タイプ、84XXX以降の個体は、たぶんコストダウンのためだとは思いますが、アルミ合金製のものに変わり、しかもマウント基部の梨地仕上げの部分のフェイクレザーが張ってあります。
そういった意味では、使わないだろうに手を出してしまったのは、Sophiaの兄弟であるのみならず、この入念な仕上げと重量感の為せる技だったと言わざるを得ません。
さて、前置きはこのくらいにしておいて、早速、作例行ってみます。
まず一枚目。
陽も傾きかけた真冬の神楽坂、幸せそうな若いカップルが不動産屋さん店先の貼り紙を眺め、しきりに夢を語っているようです。
こんな古風な街で、しかも小さな不動産屋さんの空き部屋仲介の貼り紙に見入る二人の姿は、思わず、名曲「神田川」を思い出さずにはおられませんでした。
かなり気を遣ってピンを合わせたつもりでしたが、M8のファインダでマグニファイヤ無しでは、90mmの玉で50mm以下のシネレンズ並みのピントはなかなか難しそうです。
しかし、発色は地味目ではありますが、あくまで目で見た通りで誇張無く、日暮れのひと時を彷彿させます。
そして二枚目。
坂を下って来ると、いつもの石畳の裏通りが目に留まりました。
そこで、残照の裏通りの石畳の表情を捉えるべく一枚。
さすが、M8のAPS-Hサイズの画面では4隅の流れも、色滲みも認められませんでしたが、不本意なゴーストが写り込んでしまったのが痛恨でした。中野のぺこちゃんカメラでも行って、ヂャンクフードを探して来ましょう。
続いて三枚目。
今度は反対側の裏通りに入っていくと、いつものパリの裏通りをイメージしたオープンエアのカフェがあります。
しかも、時間が時間なので、灯りが点いています。そこで一枚。
二枚の看板にピンを置いた筈なのに、何故か、背後の籐椅子の背凭れのテクスチャが瞠目すべきシャープネスで写り込んでいます。
何故か、強い明かりで看板を照らしているのに、ここでは不用意なフレア、ゴーストは認められません。
まだまだの四枚目。
次の目的地である、一番町に向かうべく、神楽坂を下り、飯田橋駅前近くに来て、坂を振り返り、斜面の賑わいを一枚戴き。
ピンは手前の粋な長身のカップルに置いていますが、ここでは、空がかなりの面積を占めていますが、フレアは殆ど認められず、ゴーストは皆無です。また後ボケもナチュラルでイイカンジではないでしょうか。
最後の五枚目。
坂も交差点の手前、灯りがともされた新顔のフレンチ料理の店先で、ブイヤベースだかポトフだかの量り売りをやっている兄さんが居ました。
結構目立つのに、誰も買おうとはしません、たまにカップルが近づいてきても、店内へのお客さんだったり、道を尋ねる老夫婦だったり・・・
しかし、明るい店内と、寒々とした店頭で、めげずに持ち場を守ろうとするいなせな兄さんの姿はかなり印象的でした。
そこで及ばずながら宣伝の意味も含めて一枚。
肝心の兄さんのピンは甘くなってしまいましたが、その分、店内の様子が良く捉えられており、点光源でフレアや非点収差が殆ど認められないという不思議な描写特性も何となく判ったカンジでした。
今回の感想は、いやはや、望遠というのは使い慣れないとなかなか難しい・・・ピン、ブレは言うに及ばず、構図のとり方、背景の置き方・・・
まだまだ修錬が必要であると痛感した次第。
テーマ:ライカ・マウント・レンズ - ジャンル:写真
- 2010/01/24(日) 20:59:41|
- 深川秘宝館
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【撮影データ】カメラ:LeicaM8 絞り優先AE ISO Auto 全コマ 開放 ロケ地:浅草
さて、一月ももう二週間も過ぎ、当工房操業報告でもあるブログも本年二回目の更新です。
今回も撮影日時は異なりますが、浅草からの作例紹介になります。
このレンズをまずご覧になって、な~んだ、コンタックスパチモンのキエフ4にオリジナルのゾナー付けただけじゃね、面白くも何ともねんぢゃね・・・と思われる向きもあろうかと思います。
ところが、このゾナー、ただのゾナーぢゃない、先週のKinematographに先駆けて走っていたプロジェクトの成果で甦ったハイブリッドレンズなのです。
中古カメラ屋巡り、或いは世界中古市のような中古カメラが沢山並んでいる場所で、たまに見かけるのが、前玉が磨りガラス状態になり、羽は油まみれ、そして後玉もコーティングが草間彌生の版画よろしく、水玉模様になってしまっている痛々しい沈胴ゾナー5cmf2です。
稀代の銘玉もこのようなまともに撮影に使えない状態では、1万円以内で叩き売られています。
以前、この憐れなゾナーを何本か買い上げ、川崎の友誼工場で、前・後玉の研磨再コート、そして鏡胴内部のクリーニングと調整をして貰い、そのうち数本をニコン規格で組んで貰っています。
しかし、かなり手間のかかる修復作業なので、コストが高く、この作業で元のレンズの購入代金の4本分近くかかってしまいます。
可哀想なゾナーを見かけるたび、何とか甦らせて、また撮れるようにして上げたいという思いは抱くものの、遂に直近買った最後の一本は、修理にも出さず、マウント取りの部品用にでも使おうと防湿庫その底で眠りに就いていました。
しかし、或る日、買ってから暫く、分解方法が判らなかったのが、ふと閃き、あっと言う間に沈胴のマウント部とシャフトを分離し、そしてシャフト部から中身の光学ユニットを取り出し、前玉、中群、後群と取り出すことに成功しました。
最初は、前玉と後玉だけ、当工房に腐るほど在庫があるロシアのジュピター8から外して嵌めれば、取りあえず撮ることは出来るようになるだろうと考えたのですが、世の中そんなに甘くない・・・ゾナーとジュピターには、超えるに超えられない壁があったのです。
それは何かというと、前玉が銘板の下で枠金物にかしめた上で装着されており、一方、ジュピターは前玉受けは分解可能な別形状の金物になっており、そのままでは玉交換は出来ないことが判ったのです。
しかし、中玉は全く同じ形状で互換性はありそうでした。尤も中玉は憎たらしいくらいキレイなままだったので、これはそのまま使うこととして、改造方法を考案しました。
そこでまた閃いたのが、外観はボロボロでどーしょうもないレンズを一山幾ら、で送ってきた中から、50年台前半のジュピターを探すこと。
ジュピターの銘板の前から2桁が西暦の製造年の末尾2桁を表すので、簡単に見つかりました。
何と、49年生のボロボロのレンズがあり、玉は傷々、フィルター枠は曲がり、一部欠け落ち、鏡胴にもシールだかタールだかのベトベトが乾いたような物質がくっ付いていて、お世辞にもガラクタ以上のものとは言えませんでした。
う~ん、これに較べりゃ、まだゾナーは息がある・・・と正直、思った次第。
ところが、鏡胴から内部の光学系を取り出してみたら、精緻の旋盤加工で削り出された内部筒の外観形状は、戦前のゾナーと瓜二つで、真鍮から削り出して作ったか、アルミからかの違いくらいです。
勿論、形状、寸法も全く同一ですから、沈胴のシャフト部には何の違和感なくすっぽり収まりました。
大きな違いは、前玉の固定方法、戦前のゾナーの真鍮の眼鏡みたいな真鍮枠を介しての装着に対し、ジュピターはクラスノゴルスクでの生産プロセス改良の賜物か、終戦直前にツアイス自身が改良したのか判りませんが、筒の最先端部の構造が枠金物無しで前玉を保持出来る形状になっており、新しい玉を幾らでも嵌め替えられる構造にしてあったのです。
一方、後玉を受け入れる部分はオリジナルと同一で、スクリューを回してやれば、後玉が金物ごとすっぽり抜けてしまい、そのまま別のものと入れ替えが出来る構造になっていたのでした。
そこで、またいつもの地道な作業で前玉と後群の焦点距離の短いものをキレイなパーツから選って組み合わせ、オリジナルの中玉はそのままにニコンの基準である51.6mmに近づけた光学系の創出に成功しました。
そうして、パーツが全て揃ったところで、組み上げに入ったワケですが、中玉同様、銘板もオリジナルのゾナーのものを使いたかったので、前玉を固定する押さえリングをジュピターのものから現物合わせで削って薄くして、銘板が所定位置までねじ込めるようにしたのです。
文章にしてしまうとあっけないですが、結構な手間がかかりました。
でも、お金をかけずに気の毒なゾナーを甦らせることが出来たので、かなりの達成感はありました。
そこで作例いってみます。
まず一枚目。
浅草と言えば雷門、その下で欧米人のツーリスト諸氏がガイド役の兄さんと、ディベートの練習をおっぱじめたようでした。
最初は提灯下部の金物のアップでも撮って、フレアのテストしようと思っていたのですが、急遽、テストモードを変更し、白人の肌の再現性を確認。
結構、シャープで色ノリ良く写っています。
しかも、ゾナーにしては、前ボケがかなりおだやかです。
そして二枚目。
仲見世をずんずん歩いていくと、お土産物屋さんの前で、年端もいかない小々姐がずいぶん年の離れたお母さんの携帯を覗き込み、甘えています。
そこを音もなく近寄り、一枚戴き。シャッター切った直後、娘さんがご注進に及び、お母さん、あ~らいやだ、撮る時は撮るって言ってよ・・・と苦笑、すいません、イイ表情の瞬間だったんで(本音は娘さん主体なんですが)、という微笑ましいやりとり。
光源が宜しくなかった割には、小々姐の瑞々しい肌、美しい健康的な黒髪の質感が程好いシャープさで捉えられています。
また、後ボケがなかなか穏やかで好感持てました。
続いて三枚目。
仲見世を終点まで歩き、宝蔵門前までやってきました。
この時点では年末の行事前だったので、門の前に寄進者の名前を書き連ねた提灯が並んでいます。
これを宝蔵門をバックに一枚戴き。
ここでも、シャープネスと前ボケのバランスの良さが見て取れます。
まだまだの四枚目。
いつもタダでロケさせて戴くのも申し訳ないので、たまには本堂にお参りし、お賽銭を上げました。
すると、速攻のご利益か、また母娘の微笑ましい光景が目の前で繰り広げられ、如何にも撮って下さいと言わんばかりぢゃないですか・・・
ここでまた一枚戴き。
光線状態は最悪に近いですが、それでも、衣服の記事、毛髪の質感描写はかなり上手くいっており、逆光となった背後の蛍光灯もフレアはそれほど膨らみませんでした。
また、低速シャッターの恩恵として、周りの人物が皆、流れて面白い一枚になったと思います。
最後の五枚目。
仄暗い本堂を後にし、また陽が傾いたとはいえ、十分明るい表に出ました。
そして、いつものおみくじ売り場にやって来てみれば、今度は小姐とその弟がおみくじにうち興じています。
こんな年端もいかないうちから神頼みかい・・・とか思いつつ、一枚戴き。
ここでは、子供達の瑞々しい肌、そして黒髪の質感を余すところ無く捉え、一方、ステンレス製と思しき、おみくじ入れは、微妙なフレアで金属の冷たさを和らげたかの如き描写となっています。
今回の感想としては、一般的にはジュピターはゾナーの劣化コピーであって、年追うごとに品質低下の一途を辿ったなどと言われていますが、前玉こそ70年代始めのものを使いましたが、後玉は80年代になってからの赤茶けたコートのものを使っても、ご覧の通り、おそらく店頭に並ぶ未整備のゾナー、或いはニッコールにも遜色ない写りをするものが出来上がりました。
今後も風説、一般論に惑わされず、技術を磨くとともに、自らの手で実証していきたいと考えました。
テーマ:ニコンSマウント - ジャンル:写真
- 2010/01/17(日) 21:00:39|
- Sマウント改造レンズ
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【撮影データ】カメラ:Leica M8 ISO Auto 絞り優先AE 全コマ開放 ロケ地:浅草
遅ればせながら、あけましておめでとうございます。
今年もどうぞご贔屓のほど・・・
さて、昨年暮れの早いうち、というか11月の終わりくらいには、新年特集は、去年に負けず劣らず、すんごいのやりますよ☆とか、あちこちで吹いていたんで、何を出そうか、それなりに悩んでいたのですが、結局、当初案通り、少なく都のネット上では、世界に4本しか棲息が確認されていない銘器、Dallmeyer Kinemarograph2"f1.9をお送り致します。
いきなり新年からレアレンズ系で来ると、ははぁん、ボウナスがちったぁ多めに出て、その勢いに任せて、とうとう値の張る古典レンズ系に走ったかと勘繰られる方も居られると思います。
しかし、心配ご無用、このレンズは、殆どタダ同然で舞い込んで来たものを、深川の技術と情熱で再び生命を与えたものなのです。
この、Kinematograph 2"f1.9は、戦前のアイモ、もしくは木箱のシネカメラに付いていたレンズらしく、レストア過程で調べたところ、前群が2枚貼り合わせの色消し、後群がエアギャップ入りの2枚で一群、つまり光学設計の教科書に載っているような、ペッツバールタイプのレンズだったのです。
元のオーナーの方曰く、このレンズは戦前に輸入したものとのことですから、遅くとも昭和14年の対日禁輸までに入着したと仮定すると1939年には日本国内に着いていたということであり、船便で送られたということであれば、1938年以前に製造されたものであると見るべきでしょう。
となると、この70年以上前の、淡いブルーのコーティングもキレイに残っているレンズは、当時の最先端の光学技術の粋を集めて作られた想像を絶する超高性能レンズ、まさに当時の日本の光学技術からすれば、"神器"とも呼べるようなものだったとも想像出来ます。
ところが、このレンズ、21世紀の日本で再び発見された時には、絞り羽根もリンク板も、外側の絞りリングも無く、鏡胴の上部に元々の絞り駆動用の棒が動くスリットの入ったままの言わば、どんがら状態で埃にまみれた状態でした。
しかし、そのエレメント自体は奇跡的に状態も良かったので、目利きの前オーナーが「深川なら再び命を与えられるだろう」との思いで託して戴いた次第。
ここで、一大プロジェクトの始まりとなったわけです。
通常のレンズ改造であれば、光学系として完結しているユニットのマウントを作り変え、せいぜい、距離計連動カムを切るくらいですが、今回のものは、その光学系を蘇生させることから始めねばなりませんでした。
まず、絞りの内部部品の再生です。
これは、某ロシアレンズで比較的大型で薄い絞り構造を持つものが手許にあったので、その鏡胴内部のアルミ構造物から、絞り部分のみを削り出して、超薄型で高剛性の絞りディスクユニットを造り出すことから始めました。
しかし、この絞りディスクユニットを拵えただけでは、リングと連動出来ません。
何故ならば、前群真下の横スリット穴と絞りディスクは1cm弱離れていて、真横からピンをちょこんと出して、それを捕まえる適当なリングを外側にくっつけてハイ完了というワケにはいかず、光線漏れも十分考慮し、底部に絞り連動アームを持った回転内筒を設計・加工しなければならなかったからです。
この絞りメカの復活に優に3週間以上かかり、やっとクリーニングした光学系と合体させて、機能するレンズとなりました。
さてここからが深川の通常作業、マウント改造です。
これは、幸いなことに実焦点が殆ど51.6mmに近かったので、深川得意の薄型ヘリコイド&マウントディスクに合体させ、無限を合わせただけで全く問題なく距離計連動となりました。
さて、ここからが試写です。
まずは一枚目。
日も傾きかけた浅草に出て、地下道から雷門に向かうと、車夫の一群が観光客目当てにしきりに勧誘しています。
その中で、なかなか見かけなかった女性の車夫(車婦?)さんがなかなか巧妙に営業トークを展開していたので、目で撮るよ、とコンタクトして一枚戴いたもの。
M8で撮ったせいもありますが、髪の毛、服地の質感まで極めてシャープに捉えていますが、後ボケは、心持ち、回りかけているような感アリです。
そして二枚目。
仲見世を歩いていくと、このレンズの生まれ故郷かどうかは判りませんが、欧米からの観光客一家が珍しいカメラとアヤシゲなレンズを提げた国籍不明の中年男と目があったので、好奇心に満ち溢れた眼差しを向けてきます。
そこで、ニッコリ笑った次の瞬間にシャッター切ったのがこの一枚。
ここでは、お父さんと娘さんは悪い光線状態にも関わらず、相変わらずシャープに捉えられていますが、バックはもうガマン出来ん!とばかりに回り始めてしまいました。
更に三枚目。
彼らにサンキュー、ハバ・ナイスディとか述べて別れ、また仲見世を歩いて行くと、また面白い光景に出くわしました。
乳母車に乗った女の赤ん坊が、しきりに手を伸ばし、お店の売り物の鈴の根付だかを嬲りモノにしているのです。
その必死の目つきが面白かったので一枚戴き。
最近接域にも関わらず、合焦部は恐るべきシャープネスを発揮しています。
恐らくR-D1sとか、マイクロフォーサーズボディであったなら、恐らく70年代以降の高性能シネレンズで撮ったものと区別がつかないかも知れないほどです。
ところが、背景は、非点収差と像面湾曲がどっと押し寄せ、あたかも、つのだじろうの「恐怖新聞」のワンカットのようなおどろおどろしい描写になってしまっています。
まだまだの四枚目。
仲見世も終わりに近づくと、宝蔵門が大きく見えてきます。
ここで、またむくむくと悪戯心が湧いてきました。
どうせ背景がぐるぐると回るなら、それを逆手にとって、オモシロ写真撮ってやろうぢゃないか・・・と。
そこで、暮れの浅草仲見世名物の空中オブジェのうち、コマが有ったので、それにピンを合わせたもの。
まさにコマを中心に背景が回り出したようで、結構面白い画造りになったのではないかと思います。
最後の五枚目。
境内で何枚か撮ってから、また元来た道を引き返し、仲見世を辿ります。
すると、往きでは人だかりが凄くて、ご尊顔を拝むのもままならぬ状態だった、浅草3大人気姑娘?のうちの一名、雷おこし屋の"ヤング相田翔子"嬢がまるまる見えます。
そこで、熱心に働く様を一枚。
ここでも、主人公は髪の毛の一本一本までクリアかつシャープに捉えられていますが、被写界深度域から一歩でも出ようものなら、渦巻きに巻き込まれ、あたかも時空の裂け目にでも吸い込まれるような姿で画面に焼き付けられるという酷い仕打ちが待っていたのでした。
今回のレストアは、恐らく通常の改造の3倍以上の労力はかかっているとは思いますが、それ以上に得るものは大きく、単なるマウント改造のみならず、一旦命を失ったレンズを甦られることも出来ることが判ったので、先般の自主設計レンズの技術と組み合わせれば、今後、様々な楽しみが広がっていくのではないかと、我ながら期待に胸がうち震えたのでありました。
テーマ:ライカ・マウント・レンズ - ジャンル:写真
- 2010/01/11(月) 19:31:37|
- その他Lマウント改造レンズ
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