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深川精密工房 [Fukagawa Genauigkeit Werke GmbH]

深川精密工房とは、一人のカメラマニアのおっさんの趣味が嵩じて、下町のマンション一室に工作機械を買い揃え、次々と改造レンズを作り出す秘密工場であります。 なお、現時点では原則として作品の外販、委託加工等は受付けておりません、あしからず。

An optic that takes us to a world full of thing amazing ~General Scientific 2” f1.6

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さて、今週のご紹介は予告通り、今年最後の更新、米国製超レアレンズによるシュルストレーミンもホンフェも真っ青のクセ玉描写をご披露して、一年の締めくくりとしたいと考えます。
まず、このレンズの氏素性ですが、米国はGeneral Scientific社という、知名度は殆ど無きに等しい、光学、理学機器を手広く商う会社の製品で、自社では生産ラインを持たないことから、国内外の光学機器メーカーからOEM供給を受けて、自社の産学官に広がるネットワークで販売していたようです。
今回のレンズも、夏頃に、恒例の電子湾夜釣りで適当に流していたら、絞り機構・ヘリコイドとも無しプロジェクタ用のペツバールタイプということで、意外とお値頃価格で、珍品の部類に入る、2”以下のGeneral Scientific 社製品が出されていたので、ほぼ反射的にポチッとな!してしまい、忘れた頃に届いていたのですが、バックフォーカスが異様に短かったので、これはライカマウントはムリだと考え、ミラーレス用として使うべく、改造パーツが届いてから、しこしこと閑を見つけては旋盤でジョイント&スペーサ金物を削りだし、今年最後の出張である、那覇出張の前週に完成し、仕事を完遂したプライベートタイム、最終日のフライト前の時間で鬼のように試写しまくったという次第です。
では、さっそく、当日の行程に沿って実写結果を逐次眺めて参りましょう。カメラはSONYα7cによる絞り優先AE撮影となります。

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まず一枚目のカットですが、那覇出張では、GOTOもどきの官製キャンペンに乗っかって行ったため、普段、プライベートなら使わないような、立地も良ければ、お値段もそれなりに良い、国際通りの東端は牧志駅に石を投げれば届くくらいの至近距離の宿に滞在していたので、試写は庭のごとく通暁する平和通から壺屋、安里辺りで行おうと考え、国際通りから平和通に入ってすぐの土産物屋さん店頭に立っていた妙に艶めかしいミニーのマネキンにモデルさんになってもらったもの。

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二枚目のカットですが、ここ平和通は那覇最大の観光スポットである国際通りに直結していることから、観光客目当ての土産物屋さんや軽食物販店が軒を並べているのはご存じの通りなのですが、奥の方に行くに従い、観光客のみならず、地元民各位の利用も想定した、オープンな手芸教室のようなものも散見され、そのうち一軒では、通りに面した机で、いたいけな童子達が紙粘土のようなものでシーサーみたいなものを作っていたので、その様子を通りざまに一枚戴いてみたもの。

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三枚目のカットですが、平和通も終点に近づき、やちむん通りと呼ばれる、焼物工房、陶器店が軒を並べる壺屋地区へ通じる道への分岐点近くまでやってくると、よほど通の観光客か、地元民各位くらいしか歩いていないのですが、それでもこの日は、天気も良く、比較的、観光客の絶対数も多かったので、立地的にはかなり不利なはずの琉球ガラスのオリジナルアクセサリ等を商うお店を眺めている家族連れの姿が目についたので、通りをバックに一枚戴いてみたもの。

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四枚目のカットですが、平和通から、壺屋地区への通路の手前の、確か手芸用品店の店先にネコ様専用の柔らかそうな毛足の長い毛布を敷き詰めた大きめの籠のようなものが置かれ、店先には何頭か色とりどりのネコが居たのですが、この居眠りネコだけが、人間に対する警戒心ゼロで、このレンズの最短距離付近まで近寄っても、微動だにしなかったので、有難く一枚戴いてみたもの。

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五枚目のカットですが、ネコの群がる手芸用品店横の、ちょうど壺屋地区へ向かう表通りの側道に当たる細い路地を、関西弁も喧しい、季節外れの、涼しげを通り越した、ことによれば、内地では変人扱いされかねないような薄着の小姐一個分隊が至近距離での精密撮影を試みる工房主の後ろを通り過ぎていったので、振り返りざまに一閃浴びせてみたもの。

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六枚目のカットですが、昼なお暗い、平和通のアーケードから、壺屋地区への道を辿っていくと、晴天の下、通りに軒を並べる工房、陶器店の赤瓦や、ショーウインドーに展示された焼物の釉薬の照り返しも眩しく、前回の出張では、1泊2日の弾丸旅行で、しかも同僚と一緒だったため、こんな、業務とは一万年経っても関わりがなさそうな場所を自由に歩くことなどままならず、前回訪れたのが、亡父が元気だった頃なので、実に12~13年ぶりの訪問で、感慨もひとしお、通り入口付近の説明板横のつがいのシーサーの雄、「ウン」を最短で撮ってみたもの。

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七枚目のカットですが、通りの殆どは前回来た時と殆ど変わりなく、地図を見ずとも、主要な観光・撮影スポットは難なく回れる自信は有ったのですが、今までは、来る度にその立派な佇まいを撮影させて貰っていた、「南窯」という市文化財でこの地区にはもはや二つしか現存していない登り窯のあまりに惨たらしい荒れように心を痛め、さすがにその姿を撮って不特定多数に公開するのも憚られるので、その手前のハイビスカスの雄蕊にピンを合わせて最短で撮ってみたもの。

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八枚目のカットですが、「南窯」の設けられた丘陵手前の斜面に生えた巨木の根元には、この登り窯が稼働していた頃に焼かれたと思しき、実用陶器の数々が何らかの理由で陶工の手によってうち捨てられ、幾星霜をそこで過ごしてきた風格のようなものさえ纏って、そこに佇んでいたのですが、叢の中の漆黒の陶器というのも、なかなか趣きがあると思い、実質的にはAPS-Hまであるかないか、というイメージサークルに収めて撮ってみたもの。

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九枚目のカットですが、今回の壺屋地区訪問の目的は、通りでの試写もそうなのですが、前日、金曜日に同僚を誘って、8年かけて復元修理を施した、国指定の重要文化財、新垣家住宅の建物の中を是非とも見学して、前日に面談した、沖縄県では唯一の宮大工の方の仕事の成果を見たかったので、「南窯」から移動する途中に咲いていた細かな赤い花を至近距離から撮ってみたもの。

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十枚目のカットですが、新垣家住宅の前までやってくると、その西側の斜面の道路上で、新垣家の塀をバックのせっかくの琉装で記念撮影を撮りたいらしく、地面にスマホンを置いて、それを路傍の石ころで固定して自分達の姿を写そうとしていた小姐二名組が居たので、何枚か撮って上げるから、この米国産のレンズ試写のモデルさんになって、とお願いしたところ快諾、この写真も気に入って頂いたので、帰京後、送付させて頂いたもの。

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十一枚目のカットですが、小姐二名に撮らせて貰ったあと、しばし、壺屋地区のこと、そしてこの新垣家住宅の8年かけての保存修理のこと、そして直す前の傷んだ状態のことなど説明し、さて、それじゃ、この家の中に用があるんで、といったん別れを告げて入ろうとしたら、なんと、開場は13時からで、まだ2時間も時間があったので、いったん首里金城町の石畳に回ってから戻ることとし、壺屋地区のはずれの共同井戸に設けられた龍のオブジェを撮ってみたもの。

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十二枚目のカットですが、安里駅からゆいレールに乗って、前回乗った時は終点、今や浦添市まで延伸されたゆいレールの通過駅のひとつになって隔世の感を感じざるを得なかった首里駅で降り、首里城の南南西の丘陵斜面に在る、首里金城町の石畳を目指し、歩いて行ったところ、さすがにこのエリアは宅地化が更に進み、街の様子がかなり変わってしまったこともあって、ちょい遠回りしましたが、目標の金城町石畳入口付近の、おそらく世界一有名な「石敢當」を石畳の坂道をバックに撮ってみたもの。

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十三枚目のカットですが、前回は気付かなかった、或いはここ数年で改装した結果なのかも知れませんが、「石敢當」を塀の傍らに建てている、住宅、いや正確には店舗兼住宅というべきなのかも知れませんが、その建物の厚く丁寧に塗り籠められた真新しい白い漆喰も眩しい赤瓦の屋根の西側の棟の位置に、内地なら鬼瓦か鯱を立てるところ、手を挙げてハーィと挨拶しているようなシーサーが載せられていたので、面白いと思い、一枚戴いてみたもの。

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十四枚目のカットですが、ここ金城町の石畳の坂道ふもと終点の広い自動車も通れる石畳の道路との交差点西側には琉球様式平屋建ての公民館のような役割と思しき木造の建物が建てられており、街の住民のみならず、観光客も含め、誰でも、自由に上がって中を見学、或いは板の間で寛いでも良いことになっているのですが、上がり込んじゃうとついつい寛いで、新垣家住宅再訪とランチタイムとの兼ね合いが収まり切れないので、外から、儀式に使う見事な銅鑼の写真を撮らせて頂いたもの。

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十五枚目のカットですが、金城町の石畳の坂道の散策も無事終え、新垣家住宅の開場時間は13時からなので、牧志駅でゆいレールを降り、ランチは空港で食べることにして、急いで新垣家住宅に取って返して中を見学しようとやちむん通りを急ぎ足で歩いていたら、先ほどの「南窯」下の店舗前のシーサーの前にネコがあたかもクラウチングスタートするかの如き構えを撮っていて、そのままカメラを向けたら、勢いよくシーサーの頭に飛び乗る瞬間が撮れたというもの。

今回の感想ですが、いやはや、ペツバール型は、通算で10本以上改造して撮ってみましたが、この米国産のプロジェクター用レンズも、開拓時代の西部地帯のあちこちに居たというカウボーィ並みにワイルドで、特に至近距離での被写体など、背景があたかも水槽越しに撮ったかの如く、像面湾曲も非点収差も物凄く、正直、使いづらいクセ玉ではありますが、イメージサークルの狭さも念頭に置いて、ポートレとか至近距離でのブツ撮りに使ったら面白そうです。

さて、今年も、拙ブログへのご愛顧有難うございました。私儀ながら、お城巡りにうつつを抜かしたおかげもあってか、日本城郭協会認定の城郭検定準一級に一発合格し、ますますのめり込みそうな気もしますが、機械いじりもそれ以上に好きなので、お金と暇が出来たら、ボチボチと改造は行って、この場を使って発信して参りたいと考えております。
来年もどうぞ宜しくお願い致します。
では、どなた様も佳き御年を!!
  1. 2022/12/25(日) 20:03:33|
  2. Eマウントレンズ
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Ultra-express round trip to adorable ruins of castles located in Nagano,Japan on 8th. Aug. '22

さて、今週のご紹介は予告通り、JR東日本の新幹線と高速バスを組み合せた、体力勝負の日帰り弾丸ツアー第三弾で、上田城、小諸城、併せて城下町の様子を長野県生まれのレンズ達と撮り歩いてきたので、その様子をレポートしたいと思います。

まず当日の行程ですが、10時過ぎの東京駅発の北陸新幹線で上田に11時過ぎに入り、駅からは徒歩でだいたい20分弱と云われていた上田城址までぞぞろ歩きし、到着後は郭内の現存櫓の隅々まで検分し、また駅まで徒歩で戻り、ちょうどおなかも空いて来たので、某東京12チャンネルの深夜の人気番組よろしく、「あぁ・・・腹減った、そうだ店を探そう」ということで、ランチタイム終了ギリの14時前に結局、駅前のそこそこ立派な蕎麦屋に入って、天ざるを頼み、食べ終わる頃に「これから小諸に行くのに、拙者何やってんだ!?」と風味、喉越しの観点等から、あまり口に合わなかった蕎麦によって、思わず現実に引き戻され、やはり空腹は冷静な判断力を失ってしまうものだ・・・と冷静に考えながら、長野新幹線開業に伴い第三セクター化された、元信越本線こと、しなの鉄道に乗ってお隣りの小諸市に移動し、駅前の観光案内所のスタッフさん曰く、名所旧跡回るなら、15時で復元大手門が入場締め切りになるので、すぐに行った方が良い、ということで、地図を頼りに結構な遠回りもしてしまいつつも、閉館10分前に滑り込みセーフ、中を存分に見学させて頂き、係員の方に対応の御礼を述べ、線路をはさんで反対側に位置する城跡、即ち懐古園に、赴く前に10年以上も前に知らずに散策した古い街並みが保存されている旧北国街道をざっと見学し、しかるのち、一本東の駅への近道を通って、懐古園へ向かい、内部の城郭に痕跡を存分に堪能して、夕方の小諸駅前発東京行き高速バスに乗って、都内に20時過ぎに戻ったという次第。

では、さっそく、当日の行程に沿って実写結果を逐次眺めて参りましょう。
カメラはSONYα7c、レンズは1~6枚目までがVoigtlaender Ultron28mmf2.0、7~15枚目までがVoigtlaender
SW-Heliar15mmf4.5asph.による、全コマ開放、絞り優先AE撮影となります。

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まず一枚目のカットですが、駅から歩いていくと、幹線道路に面した空堀を渡って、二の丸跡の広場を通り抜けた先に、数少ない郭内の建造物である、東虎口櫓門と南北の下見板張りの二階建ての櫓が連結した姿で復元され、これなら、徳川軍を二度に亘って、撃退したとしても不思議ではないと思わせるような立派な佇まいが視界に広がったので、通門前にその雄姿を一枚撮ってみたもの。

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二枚目のカットですが、ごつい石垣の上の立派な櫓門とものものしい下見張りの塀で繋がれた南北の櫓という、いかにも戦のための要塞というオーラぷんぷんの東虎口を通って、廓の中に入る前に見落としてはいけないものがあり、それは、大阪城の蛸石をはじめとする巨石群や名古屋城の清正石には到底及びもつきませんが、それでも、石垣を備えた城は東日本では慶長期以前では極めて珍しく、その中でも、これだけの大きな石を正面付近の目立つ位置に置いたのは平時から、見るものを圧倒しておく必要があったのかな?などと思い家族連れもろとも一枚撮ってみたもの。

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三枚目のカットですが、ここ上田城もご他分に漏れず、本の丸の主要部分には、神社が鎮座ましましており、真田とは銘打ってあるものの、祭神は、幕末まで長年に亘りこの地を治めた松平家、その前の領主の仙石家、そして上田城の創始者である真田一族が祀られており、境内には、青年真田幸村の像が建てられていたり、抜け穴伝説の井戸があったり、インスタスポットとして巨大な赤備えの兜のオブジェがあったりと趣向を凝らしているのですが、一番目を惹いたのが、京都の北野天満宮や金沢の石浦神社と同じく、手水場一杯に季節の花を浮かべ、参拝者の目を楽しませようとしていたので、嬉しくなって、一枚戴いてみたもの。

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四枚目のカットですが、ここも真田神社境内の景色なのですが、何処かで既視感あるな、と思ったら、川越市の氷川神社や、前出の金沢の石浦神社にある、絵馬を吊るして奉納するために設けられた、アーチというか、トンネル状の通り抜け施設で、ここのものは、さすが鄙の地だけあって、高い木々の下に設けられているため、天井に相当する部分からは、木漏れ日が射してきて、えいもいわれぬ厳かな雰囲気を醸し出していたので入口付近から人が来ない頃合いを見計らって一枚撮ってみたもの。

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五枚目のカットですが、これが、数少ないというか、唯一の築城当時から、約400年に亘って、この地に建っていたことが近年の調査で判明した西櫓で、ここは真田神社の裏手、伝説の井戸や、青年真田幸村の銅像を通り抜けた本の丸の西のどん詰まりの切り立った斜面の石垣の上に建てられており、中には入れて貰えませんでしたが、この日は天気も上々だったので、夏空をバックにこげ茶の下見張り壁も渋い雄姿を一枚撮ってみたもの。

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六枚目のカットですが、次に食事をはさんで小諸城へ移動しなければならないので、時計を睨みつつ、先ほどは後回しにして通り過ぎた東虎口櫓門に登るべく、発券所を目指して、来る時とは異なるルートを歩いていたら、夏の風物詩とも云える風鈴が、屋根の無い東屋のようなところに所せましと吊り下げられており、色の異なるガラス製の傘越しに木々の緑と夏の青空が透けて見えて、とても美しいと思い、下まで歩いて行って一枚撮ってみたもの。

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七枚目のカットですが、東虎口櫓門一帯への入場口は南櫓の向かって右、即ち石垣側に石段が設けられており、そこから南櫓の中を見学し、しかるのち、南側中庭を通って櫓門二階の展示場を経て、再び、北側中庭経由、北櫓へとアプローチするという見学経路なのですが、実は、中庭が文字通り猫のひたい程度しかなく、中庭から南北の櫓の外観を撮ろうとすると、いかなフルサイズでも屋根が切れて無様な描写にしかしようがなく、ここでレンズを替えて、15mmの超広角レンズの威力発揮で北櫓側面を撮ってみたもの。

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八枚目のカットですが、せっかく、普段なかなか出番の来ない長野県産の"超能力"レンズを初めてα7cに装着してみたので、しばらく、遊び半分で使い続けることとし、北櫓内部に足を踏み入れ、木造の城郭建築では、床板の釘の種類と同じくらい興味のある、二階から観察できる、屋根裏の小屋組の木材の構造を撮ってみようとEVFを覗いてみたら、f4.5と暗い開放値ながら、かなり広範囲かつ鮮明に撮れそうなことが判ったので、手振れに注意を払って、一枚撮ってみたもの。

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九枚目のカットですが、古材を使用した再建建築とはいえ、かなり詳細に亘り、江戸期の建築様式を確認することが出来、更には、おそらくは、木の枯れ具合から、昭和初期以前に施されたと思しき補強用の木製の筋交いなども確認出来、かなり満足し、上田城を後にし、北国街道の街並みを眺め、駅前まで戻ってから、あまり納得感の無いランチを食べてから、しなの鉄道経由、小諸駅に移動、閉館時間間際だったので、遠回りしつつも何とか時間内に辿り着いた、小諸城大手門の外観を撮ってみたもの。

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十枚目のカットですが、締め切りギリギリにも関わらず、管理人のご老人は快く、中へと案内して頂き、色々とお城にまつわるエトセトラを話しながら、櫓門形式である大手門内部を見学したのですが、まず驚いたのが、天守ですら、天井板などなく、屋根裏の小屋組みが丸見えなのにも関わらず、ここ小諸城の櫓門は、云い方は雑ですが、それこそ書院造の、普段、位の高い侍が暮らす屋敷の居間などと大差ない造りになっていたことで、そもそも、攻める側の目線で見たら、こんな窓が大きく開放的な造りでは、火縄銃どころか、火矢、或いは投石でも十分攻撃出来てしまう、とか要らぬ心配しつつ内部を撮ってみたもの。

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十一枚目のカットですが、管理人のご老人との話も弾み、さりとて、いつまでも建物を開け放った状態だと、次から次へと訪れてくる観光客を、それこそ陽が沈むまで、管理規則を曲げて対応しなければならず、嘱託かアルバイトのご老人が残業手当を貰えるようには思えなかったので、適当なところで切り上げ、また来て各地の城の話を聞かせて、という嬉しいお言葉を後に櫓門を下る時に撮った、二階部分正面外壁の様子。

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十二枚目のカットですが、またしても似たような門が登場、ですが、ここは、先ほどの大手門とは、線路を隔てて160mほどの距離にある懐古園こと小諸城址入口に建つ三之門という櫓門形式の門で、慶長期に建てられたものが、この地域を襲った大水で、周囲より低いことから「穴城」と呼ばれるだけあって、門も浸水、倒壊、のちの明和になってから再建され、現在は国指定重要文化財になっているシンメトリックで端正な佇まいを、外は工事の柵やシートでかなり覆われて、画的にどうかなと思い、城内側から一枚撮ってみたもの。

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十三枚目のカットですが、実は、恥ずかしながら、ここ懐古園は大学生時代を含め、三、四回来たことがあるのですが、興味も知識も皆無で、城跡だったという認識ないままに漠然と緑濃い園内を散策し、前回など、動物園でペンギンの池の傍を通りがかった時、うへ、生のペンギンって、生臭いんだ!とか新鮮な発見をして、何か得したようなキブンでまたバスの長旅で江戸に戻っていったというおめでたさ加減でしたが、今回はきっちり予習をしたので、あちこちに城郭の痕跡を見つけながら歩き、本丸へと続く坂道の打込接の苔むした石垣を撮ってみたもの。

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十四枚目のカットですが、ここ小諸城も、先程の上田城同様、本丸の主要部分は、明治期になってからの廃城例を受けての城郭建築破却後、主に城主を務めた牧野家と城内に祀ってあった、菅原道真公、火魂社を合祀して祭神としている「懐古神社」が建てられて今に至るのですが、そこへ向かう道も、きちんと風情のある石畳が敷き詰められ、午後の西に傾いた陽光を受けシルエットになった観光客もろとも一枚撮ってみたもの。

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十五枚目のカットですが、ここ小諸城址には、知る人ぞ知る、天守閣跡の天守台が、約6mの石垣で囲われた本丸の北西角にどーんと一段高く、突き出す恰好で残されており、この野面積みのワイルドな天守台の上には、豊臣時代には、秀吉子飼いの武将、仙石家が建てた天守だけあって、金箔瓦を葺いた三層三階建ての天守が在ったとされていますが、寛永期に落雷で焼失、以降、幕府の裁可が降りず、この天守台のみ残って、400年前の様子を伝えるのみとなっていたので、その佇まいを斜め逆光で一枚撮ってみたもの。

今回の感想ですが、いやはや、本当に人間の眼って面白い、同じものを何度も見てきたはずなのに、関心が無いと、見たことすら忘れてしまう、尤も、職場の長野県内出身の後輩社員に聞いてみても、懐古園って、お城跡だったんですか、とか天守台の写真の説明聞いて、改めて驚くくらいだったので、致し方ないことかも知れません。こういうことが起こらないよう、戦後から平成にかけて、あちこちで、単純で判り易く、明確なシンボルである、鉄筋コンクリート造の外観復元、復興、そして模擬天守まで作られたのではないかと思った次第。

さて、次回は今年最後の更新、米国製超レアレンズによるシュルストレーミンも真っ青のクセ玉描写をご披露して、一年の締めくくりとしたいと考えます、乞うご期待!!
  1. 2022/12/07(水) 21:40:57|
  2. 旅写真
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Ultra-express round trip to excellent castle located in southern Tohoku, Japan on 30th. Jul. '22

て、今週のご紹介は予告通り、このところのプチマイブーム化しつつある、日帰り弾丸ツアーで、今を去ること7/30の土曜日、無謀にも早起きして東北新幹線と郡山からの磐越西線乗り継ぎで出かけた、おそらくは約40年ぶりの会津若松城訪問のレポートをお送り致します。機材は、お手軽にErnstLeitz社製のVario-Elmar21-35mmf3.3-4.5asph.をSONYα7cにつけての軽装備で一日歩きました。もちろん、全コマ開放でのAE撮影です。
では、当日の行程に沿って実写結果を眺めて逐次眺めて参りましょう。

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まず一枚目のカットですが、東京駅から乗って、11時過ぎに着いた郡山から、今度は典型的なローカル線である、磐越西線に乗り換え、約一時間、車窓からの景色を楽しんで辿り着いた会津若松駅からさらに市内循環の観光バスに乗り換え、最寄りバス停から5分ほど歩き、外堀に架かった橋を渡り、幾つかの石垣で囲まれた鍵の手を通り抜けると見えて来た、懐かしくて新しい、2011年に大幅リニュアルを受けた天守の雄姿を一枚撮ってみたもの。

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二枚目のカットですが、5重5階建て地下2階の天守へのアプローチは天守東側の石垣を切り欠いて設けられた地下階につながる入口まで石段の横に架けられたスロープを登って中に入ることになるのですが、建物の全体観と出入口の大きさと位置関係が良く見てとれるよう、いったん、天守東側に広がる芝生の上までバックして、ギリギリ全体が収まる位置から一枚撮ってみたもの。

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三枚目のカットですが、二枚目のカットの下の方にちょこっと地味に収まっている、天守の石垣を切り欠いて設けられた地下階の塩蔵経由、天守内部へアプローチする出入口周り、特に切り欠きの上に、ダリウスの剣よろしく、威圧感満載で、巨大な石の一枚板がでーん!と載せられていたのが面白くて、一枚撮ってみたもの。

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四枚目のカットですが、この立派な白亜の天守を前にして、一刻も早く中に入って、てっぺんまで登ってみたい衝動に駆られながら、その一方で、平成になってから、復元された、RC造の天守と天守続櫓、表門である「鉄門」を介し接続する南長屋門と干飯櫓の外観も至近距離でみたい気持ちにも抗い難く、いったん、入口を通り過ぎて南長屋門伝いに干飯櫓の前に出て、南長屋門が接続する表門である「鉄門」と天守のツーショットを一枚撮ってみたもの。

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五枚目のカットですが、干飯櫓の前まで行って、出入口まで戻り、地下階から順繰りに展望スペースのある最上階に向けて各階の展示品を適当に眺めながら上がっていったのですが、何せ、実質的には5階建てのビルを階段で登り切るのと全く同じですから、一気には駆け上がれず、各階で休みながら上がっていったということで、やっと辿り着いた最上階から手に取るように見える、先ほど地上から観察した南方向の構築物群を一枚撮ってみたもの。

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六枚目のカットですが、そもそも天守閣の楽しみ方は、外からその優美な外観を眺めてもよし、大手門、ないし搦め手口の門から、石垣や土塁に囲まれた虎口を通り抜けて、本丸に聳え立つ天守に巡り合う道行きを楽しむもよし、そして、その幾つもの楽しみの最終到達点が天守最上階の窓、ないし廻縁から眼下の景色を眺めること、即ち往時のお殿様目線で領地の21世紀の景色を俯瞰することにほかならないので、お殿様気分で最上階展望室の廻縁の様子を一枚撮ってみたもの。

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七枚目のカットですが、天守最上階の廻縁から360度景色を眺めて、すっかり、令和のお殿様キブンを満喫してしまったら、あとはお帰りはあちら、とばかり、展望室中央に広く開口部を取った昇降用の階段から下って行くだけなのですが、半ば備忘録的に鉄筋コンクリート造天守閣あるあるの、最上階の天井がきれいに格子状の化粧板が嵌められているをしっかりと広角のパース効果考えて撮ってみたもの。

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八枚目のカットですが、40年前にやって来た時と今回の大きな違いは、外観のお化粧直しだけでなく、オール鉄筋コンクリート造の天守本体から続櫓を経て表門までだったのが、平成になってから、木造復元で、南櫓からその先のどん詰まりに聳え立つ、往年の郭内では最大の二階櫓だった干飯櫓まで出来ていたので、有難く、檜張りの廊下をスキップしたいキブンで進んで行って、鉄筋コンクリート造とは異なり、木造の場合は構造体である屋根の小屋も木組みの様子がバッチリと観察出来るので、嬉しくなって南櫓の表門との接合部の様子を一枚撮ってみたもの。

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九枚目のカットですが、さっそくオール木造復元の部位である南櫓に足を踏み入れ、心も軽く当たりをキョロキョロしながら、ところどころ、使われている釘が、洋釘でも、ましてやその頭をタコス状につぶしたなんちゃって和釘でもないことを確認しながら、その先に口を開けている、干飯櫓への木製の階段を目指して歩いている時に櫓廊下の全体像を撮ってみたもの。

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十枚目のカットですが、お楽しみのオール木造復元の二階櫓である干飯櫓に着くと、お客を出迎える間もないのか、或いは東北地方でも特に人見知りしてシャイな会津人気質を写したのか、櫓内に幾つか置かれた等身大の木偶は、ひたすら狭間から弾も込めていない火縄銃を構えて、怖げな表情で眼下の敵を睨みつけており、愛想がないヤツだな、とか苦笑しつつ、お仕事の様子を傍らから撮ってみたもの。

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十一枚目のカットですが、櫓の中では、おそらく戊辰戦争というか会津戦争での籠城戦での戦闘員の疑似体験をしてもらう目的なのか、同じ重さの太刀と火縄銃の模型が置かれていて、誰でも触って、持ってみて重さを体験し、往時の侍達の労苦に思いを馳せる趣旨だったはずなのですが、先の中国人一家に掛かっては、単なる家族旅行の記念撮影の小道具にしか過ぎず、いつまで経っても手放す気配がなかったので、それならばと有難く団欒風景を傍らから一枚頂いてみたもの。

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十二枚目のカットですが、城内の隅々まで検分し、どん詰まりの干し飯櫓からまた引き返し、表門脇の出口から場外に出たら、とりあえずは天守続櫓の裏側を見てみたいと思ったので、表門を潜って西側の通路に出て先ほどまで居た5重5階の天守の偉容を再び下から眺め、続櫓越しに夏空の下の白亜の造形美を一枚撮ってみたもの。

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十三枚目のカットですが、このまま真っすぐ進むと、北門経由の出口に向かってしまうことになり、東側の広場越しの天守の全体像が撮れなくもなってしまうため、とりあえず、表門外というか天守続櫓裏に在った云われている「上杉謙信公仮廟所」の跡を見学してから、また戻る時に鉄筋コンクリート造復元とは言え立派な櫓門である表門の外から、その雄姿を一枚撮ってみたもの。

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十四枚目のカットですが、ここ会津若松城は復元とは言え、巨大な東日本最大級の天守閣ばかりが注目されがちですが、先の「上杉謙信公仮廟所」しかり、太閤秀吉に切腹を命ぜられ悲運の最期を迎えた千利休の子、少庵を千利休の高弟でもあった蒲生氏郷が匿い、ひそかに茶の道を伝えようとしたという「麟閣」という建物も遺っているというのでその外観を眺めたい気持ちもあって、東側の、今は芝生張りの広場に向かった時、振り返りざまに天守の全体像を撮ってみたもの。

会津若松城_016
十五枚目のカットですが、さて「麟閣」の前まで行ってみたら、予想した通り、入場は有料で、時間も残り少なかったので、せめて門の下から建物の玄関周りと特徴的な部位の写真でも撮りたいと思ったのですが、門の真下に料金所が有って、しかも、派手な立て看板が門の先の立てられていて、門の下から建物を撮るのは物理的に不可能だと悟り、おとなしく元来た道を辿って北出丸経由、郡山行のバスに乗れるバス停があるという市役所前に向かう途上見つけた、石造りのレトロな「鶴ヶ城会館」の外観を一枚撮ってみたもの。

今回の感想ですが、いやはや、かなりマニアックで綱渡りの旅でしたが、7月上旬の東北地方縦断お城巡りツアーの動線から外れていたために取りこぼしてしまっていた会津若松城と対面出来、しかも駅からのバスの車中からふと目に留まった、浄土宗寺院の本堂横の妙に縦方向にひょろ長い木造建築が城内から移築されたお三階櫓という伝承もあったと知り、今度はじっくり時間を作って、会津若松城と市内あちこちに残る江戸の面影をゆっくり泊りがけで探訪しに来たいと思いました。

さて、次回は懲りもせず、この翌週も天気がいいことに託けて、またしても、JR東日本の新幹線と高速バスを組わせた、新種の日帰り弾丸ツアーで、上田城、小諸城、併せて城下町の様子を長野県生まれのレンズ達と撮り歩いてきたので、その様子をレポートしたいと思います、乞う、ご期待!!
  1. 2022/12/04(日) 22:56:24|
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charley944

Author:charley944
今を去ること60年前、古き佳き江戸情緒の残るこの深川の地に標準レンズのみを頑なに用い、独特のアングルにこだわった映画監督が住んでいました。その名は小津安二郎。奇しくも彼の終いの住まい近くに工房を構え、彼の愛してやまなかったArriflex35用標準レンズの改造から始まり、忘れかけられたレンズ達を改造し、再び活躍させます。

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