さて、今週のご紹介は予告通り、旅から旅の合間のクラシックレンズによる撮影ということで、夏草や、兵どもが夢の跡、を彷彿とさせる古戦場を日帰り弾丸ツアーで巡ってきたレポートをお送り致します。
今回のロケ場所は、二回目の訪問となる静岡県は三島市の「山中城址」。ここは、風光明媚な高原の公園で晴れた日には、かなり大きな富士山の雄姿が芝に覆われたなだらかな丘陵越しに見え、そよぐ風には野鳥のさえずりも乗ってくる、極めて平和で風光明媚な場所なのですが、今を去ること432年前の1590年の3月29日早朝、わずかに4000~5000名の手勢で守られていた、後北条氏の小田原城における東海道上の最要衝は、全国統一を目論む豊臣秀吉勢による小田原征伐の先鋒、豊臣秀次率いる、およそ70000万名の大群が総攻撃。通常なら攻城戦は攻め手は守り手の3倍、後北条氏の築城技術の粋を尽くしたここ山中城では、優に5倍の軍勢にも持ちこたえられると云われていましたが、10倍を超える軍事力に、本来は1万名で守るような大規模要塞を小田原本城の守備戦のために半減ざれ、守備が手薄になってしまったことから、壮絶な攻防戦の挙句、双方に多数の死傷者を出し、半日も待たずして落城。その後、小田原城の落城と同時に廃城となって、山中で人知れず眠りに就いていた古戦場の遺構を、1973年、三島市が学術調査のための発掘と並行し、後北条氏の築城技術をそのまま今に伝えるべく公園に整備したものです。
この城址公園のすぐ下の宗閑寺には、この壮絶な戦いに命を落とした豊臣勢、後北条勢の将兵達を祀る墓碑が仲良く並んで建てられていて、先にこの城跡を訪れた時にはお参りで出来なかったので、今回は寄らせて頂き、平和な世に生を受けた僥倖に感謝しつつ、手を合わせて帰ってきた次第。
その後は、駅でお茶もしたかったので、小田急への乗換地である小田原で下車、まだ陽は残っていたので、子供の頃からの馴染みである小田原城に顔を出して帰京したというのが今回の弾丸ツアーのあらましです。
機材は、お手軽にErnst Leitz社製のVario-Elmar21-35mmf3.3-4.5asph.をSONYα7cにつけての軽装備で一日歩きました。もちろん、全コマ開放でのAE撮影です。
では、当日の行程に沿って実写結果を眺めて逐次眺めて参りましょう。

まず一枚目のカットですが、前回は今回以上の駆け足行脚だったので、障子堀と畝堀だけ見れば良いと思い、箱根街道をはさんで東西に分かれた要塞跡の西側だけを見学して帰ってきたのですが、今回はまず前回の見逃しリターンとばかり、東側の丘陵部に広がる、すりばち曲輪を擁する岱崎出丸の見学から始め、最深部手前で土塁の上から三島市街が遠望出来る場所があったので、市街地の遠景をバックに、落ちたら這い上がれない空堀の偉容を撮ってみたもの。

二枚目のカットですが、山の上からの景色の見事さに目を奪われて、周囲にはあまり注意して見ていなかったのですが、登ってみた土塁が、曲輪内部からも結構高いことは気付いていたのですが、やって来た方角を振り返ってみたら、これが、ミニ万里の長城とまではいかないまでも、結構長く続いていて、感覚的には、石と土の違いこそあれ、ちょうど、沖縄は名護市近郊の今帰仁城のなだらかなカーブを描いた長い石垣を思い出させてくれて、見事だと思い、一枚撮ってみたもの。

三枚目のカットですが、岱崎出丸の最深部のすりばち曲輪まで到達し、その底まで探訪し、いよいよ、夏の装いを纏った障子堀、畝堀との、胸躍るご対面を期して、箱根街道をはさんで反対の丘陵の斜面に広がる西の丸方面へと移動すべく、足早に斜面を下っている時に真夏の山中で一抹の涼を献じていた、可憐な紫陽花に気づき、足を止めて一枚撮ってみたもの。

四枚目のカットですが、この前来た時には、障子堀も畝堀も、西側エリアだけに設けられていて、どちらかと云えば、そういったこの城跡の、特徴的な美味しいところはないものとばかり思っていたのですが、すりばち曲輪から、岱崎出丸跡の芝の広場に出る手前で視界が開けた辺りの土塁下にも見事な畝堀、即ち、空堀の長手方向を分割するかっこうで、一定の間隔で土の壁が付けられているものを指すのですが、その形状が良く判るアングルから一枚撮ってみたもの。

五枚目のカットですが、当初は一秒でも速く障子堀、畝堀を見たかったので、何も無いと思っていた岱崎出丸はそのまま、素通りしてしまおうかと思っていたのですが、周囲に巡らせた高く、長い土塁の底部の一部に畝堀が設けられていたなら、話は全然別で、実は、南側の街道沿いの防御のために「一の堀」というかなりタイトな障子堀が設けられていたので、陽光を照り返す夏草に覆われて全体的な形状が捉えにくい中、何とか工夫して、恰好が判るアングルから一枚撮ってみたもの。

六枚目のカットですが、ここ岱崎出丸も決して、何もないだだっ広い芝生の広場というわけでなく、あちこちにここがかつて、小田原城防衛の最前線である東海道屈指の軍事要塞であった痕跡が見事に復元されており、この細長い広場の長手方向に二か所、四角い土塁のような台が設けられており、これが麓からすりばち曲輪を目指して攻めてくる敵を迎撃する櫓のような役目の建物があった場所なのだと思い、当時に思いをはせて、バックに富士の裾野を入れて一枚撮ってみたもの。

七枚目のカットですが、岱崎出丸を一通り検分し終えて、いよいよ、待ち遠しい西の丸方面へと移動しようと、再び木立の小径に足を踏み入れようとしたところ、木陰で健気に花を咲かせ、訪れる人の心を和ませ、或いは、古の武士達の英霊を慰めようとしているのか、ユリのような赤い花がこうべを垂れていたので、またしても足を止めて一枚撮ってみたもの。

八枚目のカットですが、箱根街道を横切って、かつての要塞の西半分に足を踏み入れ、案内板に従って、森の中の小径を歩き進んでいくと、突如、視界が開け、そこが二の丸と云われる、かつての主戦場だったことが判り、その上には、周囲に畝堀、障子堀を抜かりなく巡らせた西の丸・西櫓エリアへと続いていくのですが、西の丸の南側の階段から、斜面の下に広がる、草むした障子堀の偉容を一枚撮ってみたもの。

九枚目のカットですが、ここ山中城跡の最高地点であり、おそらくは、小田原城防衛のための要塞としての最終防衛地点、一般的なお城では、最後の最後にお殿様か城大家老が籠城することになる天守閣最上階に相当すると思われる西櫓の建つ丘陵の斜面に深く刻まれた障子堀を西櫓跡の広場から見下ろすアングルで一枚撮ってみたもの。

十枚目のカットですが、これも山中城址公園の西半分エリアの西の丸・西櫓を降り、その丘陵部をぐるっと巡る通路を辿って、ため池を回って、宗閑寺へと向かう途中に北側斜面に設けられた障子堀の全体的な恰好が、夏草によって、エッジが見えづらくなっているものの、比較的判り易いアングルから一枚撮ってみたもの。

十一枚目のカットですが、西半分の斜面をぐるっと回って、元西曲輪経由、二の丸広場に出るルートを歩いていたら、その理由は良く判らないものの、可愛いワッフルのような恰好の障子堀が広がるエリアに接する下のエリアにはその簡易版と言えなくもない畝堀が設けられていたので、これも面白いと思い、一枚撮ってみたもの。

十二枚目のカットですが、西の丸・西櫓を巡る通路をぐるっと回り込み、上がってきたのとちょうど反対側の地点から、先ほど見下ろした西の丸・西櫓が設けられていた小高い丘陵の頂点部分を、夏草に覆われ、かろうじてその独特の形状が窺える障子堀越しに一枚撮ってみたもの。

十三枚目のカットですが、これも、西の丸・西櫓を巡る通路のもう二の丸へと下る手前辺りを歩いていたら、木陰から、西の丸・西櫓の麓に広がる障子堀の全容が、かろうじて把握出来るような陽の当たり加減の場所に行き当たったので、これが、夏草の消失する晩秋か冬だったら、さぞや見事な造形美の写真になったのに、と思いつつ撮ってみたもの。

十四枚目のカットですが、山中城址バス停から市内行きバスに乗り、三島駅から登りのJRに乗ること、熱海経由乗り換えで約45分、まだ夕暮れまでには時間有ったし、急ぐ旅でも無いので、せっかくの小田原でお城を見ないのも勿体ないと思い、小学校の遠足でひと目惚れした白亜の天守閣にお目見えしようと思い、近道である北口経由、本丸に到達し、夕暮れ前の白亜の美しい天守の偉容を一枚撮ってみたもの。

十五枚目のカットですが、本丸跡の広場の大木の根元に巡らされた円形の木製ベンチに暫し佇んで、夕暮れ前の白亜の天守に見とれていたら、あっという間に陽は傾き、そろそろ、弾丸旅行というか、毎週、どこかに出かけていた累積疲れが出てきて、お茶して休みたい気分になったので、かりそめの暇乞いも兼ねて、天守の真横からの凛とした美しい全容を一枚撮ってみたもの。
今回の感想ですが、いはや、弁慶みたいに何本もレンズなんか持ち歩かなくとも、そしてすぐに機嫌を損ねて撮影不能となることもゼロではないデジタルライカをメインにしなくとも、高性能のズームがせいぜい2本と信頼性高いフルサイズミラーレスがあれば、ちょっとした小旅行は十分、ということが良く判りました。
もっとも、この経験が11月の比較的長い、九州巡業出張の時の機材選択に大いに役立ったのですが・・・
さて来週はまたしても比較的長い出張で一週お休み、その翌週は、またしても老骨に鞭打った弾丸ツアー、7月最終日に訪問した会津若松城のレポートをお送りいたします、乞うご期待!!
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- 2022/11/21(月) 01:02:04|
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