さて、今週のご紹介は予告通り、JR東日本の新幹線と高速バスを組み合せた、体力勝負の日帰り弾丸ツアー第三弾で、上田城、小諸城、併せて城下町の様子を長野県生まれのレンズ達と撮り歩いてきたので、その様子をレポートしたいと思います。
まず当日の行程ですが、10時過ぎの東京駅発の北陸新幹線で上田に11時過ぎに入り、駅からは徒歩でだいたい20分弱と云われていた上田城址までぞぞろ歩きし、到着後は郭内の現存櫓の隅々まで検分し、また駅まで徒歩で戻り、ちょうどおなかも空いて来たので、某東京12チャンネルの深夜の人気番組よろしく、「あぁ・・・腹減った、そうだ店を探そう」ということで、ランチタイム終了ギリの14時前に結局、駅前のそこそこ立派な蕎麦屋に入って、天ざるを頼み、食べ終わる頃に「これから小諸に行くのに、拙者何やってんだ!?」と風味、喉越しの観点等から、あまり口に合わなかった蕎麦によって、思わず現実に引き戻され、やはり空腹は冷静な判断力を失ってしまうものだ・・・と冷静に考えながら、長野新幹線開業に伴い第三セクター化された、元信越本線こと、しなの鉄道に乗ってお隣りの小諸市に移動し、駅前の観光案内所のスタッフさん曰く、名所旧跡回るなら、15時で復元大手門が入場締め切りになるので、すぐに行った方が良い、ということで、地図を頼りに結構な遠回りもしてしまいつつも、閉館10分前に滑り込みセーフ、中を存分に見学させて頂き、係員の方に対応の御礼を述べ、線路をはさんで反対側に位置する城跡、即ち懐古園に、赴く前に10年以上も前に知らずに散策した古い街並みが保存されている旧北国街道をざっと見学し、しかるのち、一本東の駅への近道を通って、懐古園へ向かい、内部の城郭に痕跡を存分に堪能して、夕方の小諸駅前発東京行き高速バスに乗って、都内に20時過ぎに戻ったという次第。
では、さっそく、当日の行程に沿って実写結果を逐次眺めて参りましょう。
カメラはSONYα7c、レンズは1~6枚目までがVoigtlaender Ultron28mmf2.0、7~15枚目までがVoigtlaender
SW-Heliar15mmf4.5asph.による、全コマ開放、絞り優先AE撮影となります。

まず一枚目のカットですが、駅から歩いていくと、幹線道路に面した空堀を渡って、二の丸跡の広場を通り抜けた先に、数少ない郭内の建造物である、東虎口櫓門と南北の下見板張りの二階建ての櫓が連結した姿で復元され、これなら、徳川軍を二度に亘って、撃退したとしても不思議ではないと思わせるような立派な佇まいが視界に広がったので、通門前にその雄姿を一枚撮ってみたもの。

二枚目のカットですが、ごつい石垣の上の立派な櫓門とものものしい下見張りの塀で繋がれた南北の櫓という、いかにも戦のための要塞というオーラぷんぷんの東虎口を通って、廓の中に入る前に見落としてはいけないものがあり、それは、大阪城の蛸石をはじめとする巨石群や名古屋城の清正石には到底及びもつきませんが、それでも、石垣を備えた城は東日本では慶長期以前では極めて珍しく、その中でも、これだけの大きな石を正面付近の目立つ位置に置いたのは平時から、見るものを圧倒しておく必要があったのかな?などと思い家族連れもろとも一枚撮ってみたもの。

三枚目のカットですが、ここ上田城もご他分に漏れず、本の丸の主要部分には、神社が鎮座ましましており、真田とは銘打ってあるものの、祭神は、幕末まで長年に亘りこの地を治めた松平家、その前の領主の仙石家、そして上田城の創始者である真田一族が祀られており、境内には、青年真田幸村の像が建てられていたり、抜け穴伝説の井戸があったり、インスタスポットとして巨大な赤備えの兜のオブジェがあったりと趣向を凝らしているのですが、一番目を惹いたのが、京都の北野天満宮や金沢の石浦神社と同じく、手水場一杯に季節の花を浮かべ、参拝者の目を楽しませようとしていたので、嬉しくなって、一枚戴いてみたもの。

四枚目のカットですが、ここも真田神社境内の景色なのですが、何処かで既視感あるな、と思ったら、川越市の氷川神社や、前出の金沢の石浦神社にある、絵馬を吊るして奉納するために設けられた、アーチというか、トンネル状の通り抜け施設で、ここのものは、さすが鄙の地だけあって、高い木々の下に設けられているため、天井に相当する部分からは、木漏れ日が射してきて、えいもいわれぬ厳かな雰囲気を醸し出していたので入口付近から人が来ない頃合いを見計らって一枚撮ってみたもの。

五枚目のカットですが、これが、数少ないというか、唯一の築城当時から、約400年に亘って、この地に建っていたことが近年の調査で判明した西櫓で、ここは真田神社の裏手、伝説の井戸や、青年真田幸村の銅像を通り抜けた本の丸の西のどん詰まりの切り立った斜面の石垣の上に建てられており、中には入れて貰えませんでしたが、この日は天気も上々だったので、夏空をバックにこげ茶の下見張り壁も渋い雄姿を一枚撮ってみたもの。

六枚目のカットですが、次に食事をはさんで小諸城へ移動しなければならないので、時計を睨みつつ、先ほどは後回しにして通り過ぎた東虎口櫓門に登るべく、発券所を目指して、来る時とは異なるルートを歩いていたら、夏の風物詩とも云える風鈴が、屋根の無い東屋のようなところに所せましと吊り下げられており、色の異なるガラス製の傘越しに木々の緑と夏の青空が透けて見えて、とても美しいと思い、下まで歩いて行って一枚撮ってみたもの。

七枚目のカットですが、東虎口櫓門一帯への入場口は南櫓の向かって右、即ち石垣側に石段が設けられており、そこから南櫓の中を見学し、しかるのち、南側中庭を通って櫓門二階の展示場を経て、再び、北側中庭経由、北櫓へとアプローチするという見学経路なのですが、実は、中庭が文字通り猫のひたい程度しかなく、中庭から南北の櫓の外観を撮ろうとすると、いかなフルサイズでも屋根が切れて無様な描写にしかしようがなく、ここでレンズを替えて、15mmの超広角レンズの威力発揮で北櫓側面を撮ってみたもの。

八枚目のカットですが、せっかく、普段なかなか出番の来ない長野県産の"超能力"レンズを初めてα7cに装着してみたので、しばらく、遊び半分で使い続けることとし、北櫓内部に足を踏み入れ、木造の城郭建築では、床板の釘の種類と同じくらい興味のある、二階から観察できる、屋根裏の小屋組の木材の構造を撮ってみようとEVFを覗いてみたら、f4.5と暗い開放値ながら、かなり広範囲かつ鮮明に撮れそうなことが判ったので、手振れに注意を払って、一枚撮ってみたもの。

九枚目のカットですが、古材を使用した再建建築とはいえ、かなり詳細に亘り、江戸期の建築様式を確認することが出来、更には、おそらくは、木の枯れ具合から、昭和初期以前に施されたと思しき補強用の木製の筋交いなども確認出来、かなり満足し、上田城を後にし、北国街道の街並みを眺め、駅前まで戻ってから、あまり納得感の無いランチを食べてから、しなの鉄道経由、小諸駅に移動、閉館時間間際だったので、遠回りしつつも何とか時間内に辿り着いた、小諸城大手門の外観を撮ってみたもの。

十枚目のカットですが、締め切りギリギリにも関わらず、管理人のご老人は快く、中へと案内して頂き、色々とお城にまつわるエトセトラを話しながら、櫓門形式である大手門内部を見学したのですが、まず驚いたのが、天守ですら、天井板などなく、屋根裏の小屋組みが丸見えなのにも関わらず、ここ小諸城の櫓門は、云い方は雑ですが、それこそ書院造の、普段、位の高い侍が暮らす屋敷の居間などと大差ない造りになっていたことで、そもそも、攻める側の目線で見たら、こんな窓が大きく開放的な造りでは、火縄銃どころか、火矢、或いは投石でも十分攻撃出来てしまう、とか要らぬ心配しつつ内部を撮ってみたもの。

十一枚目のカットですが、管理人のご老人との話も弾み、さりとて、いつまでも建物を開け放った状態だと、次から次へと訪れてくる観光客を、それこそ陽が沈むまで、管理規則を曲げて対応しなければならず、嘱託かアルバイトのご老人が残業手当を貰えるようには思えなかったので、適当なところで切り上げ、また来て各地の城の話を聞かせて、という嬉しいお言葉を後に櫓門を下る時に撮った、二階部分正面外壁の様子。

十二枚目のカットですが、またしても似たような門が登場、ですが、ここは、先ほどの大手門とは、線路を隔てて160mほどの距離にある懐古園こと小諸城址入口に建つ三之門という櫓門形式の門で、慶長期に建てられたものが、この地域を襲った大水で、周囲より低いことから「穴城」と呼ばれるだけあって、門も浸水、倒壊、のちの明和になってから再建され、現在は国指定重要文化財になっているシンメトリックで端正な佇まいを、外は工事の柵やシートでかなり覆われて、画的にどうかなと思い、城内側から一枚撮ってみたもの。

十三枚目のカットですが、実は、恥ずかしながら、ここ懐古園は大学生時代を含め、三、四回来たことがあるのですが、興味も知識も皆無で、城跡だったという認識ないままに漠然と緑濃い園内を散策し、前回など、動物園でペンギンの池の傍を通りがかった時、うへ、生のペンギンって、生臭いんだ!とか新鮮な発見をして、何か得したようなキブンでまたバスの長旅で江戸に戻っていったというおめでたさ加減でしたが、今回はきっちり予習をしたので、あちこちに城郭の痕跡を見つけながら歩き、本丸へと続く坂道の打込接の苔むした石垣を撮ってみたもの。

十四枚目のカットですが、ここ小諸城も、先程の上田城同様、本丸の主要部分は、明治期になってからの廃城例を受けての城郭建築破却後、主に城主を務めた牧野家と城内に祀ってあった、菅原道真公、火魂社を合祀して祭神としている「懐古神社」が建てられて今に至るのですが、そこへ向かう道も、きちんと風情のある石畳が敷き詰められ、午後の西に傾いた陽光を受けシルエットになった観光客もろとも一枚撮ってみたもの。

十五枚目のカットですが、ここ小諸城址には、知る人ぞ知る、天守閣跡の天守台が、約6mの石垣で囲われた本丸の北西角にどーんと一段高く、突き出す恰好で残されており、この野面積みのワイルドな天守台の上には、豊臣時代には、秀吉子飼いの武将、仙石家が建てた天守だけあって、金箔瓦を葺いた三層三階建ての天守が在ったとされていますが、寛永期に落雷で焼失、以降、幕府の裁可が降りず、この天守台のみ残って、400年前の様子を伝えるのみとなっていたので、その佇まいを斜め逆光で一枚撮ってみたもの。
今回の感想ですが、いやはや、本当に人間の眼って面白い、同じものを何度も見てきたはずなのに、関心が無いと、見たことすら忘れてしまう、尤も、職場の長野県内出身の後輩社員に聞いてみても、懐古園って、お城跡だったんですか、とか天守台の写真の説明聞いて、改めて驚くくらいだったので、致し方ないことかも知れません。こういうことが起こらないよう、戦後から平成にかけて、あちこちで、単純で判り易く、明確なシンボルである、鉄筋コンクリート造の外観復元、復興、そして模擬天守まで作られたのではないかと思った次第。
さて、次回は今年最後の更新、米国製超レアレンズによるシュルストレーミンも真っ青のクセ玉描写をご披露して、一年の締めくくりとしたいと考えます、乞うご期待!!
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- 2022/12/07(水) 21:40:57|
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